2015年12月24日木曜日

20151224

A「最近Bさんのブログの閲覧者の数はどうですか?」

B「ええ、以前とあまり変らず大体1100人程度です・・。」

A「そうですか・・100人はそんなに悪くないと思いますよ。
むしろコンスタントに1日に100人は難しいのではないかと思いますが、しかし、そうしますと現在までの全期間の閲覧者は18000人程度ということになるのでしょうか?」

B「そうですね、大体そのくらいです。
現在までの全閲覧者数は19000人程度になっています。
しかし一方、私のブログのページの表示回数はつい先日80000回を越えました。
それでよくわからないのは「ページの表示回数とは一体どういう意味であるのか?」ということですね。」

A「・・私もよくはわかりませんが閲覧者数とは文字通りブログを閲覧した人数であり、表示回数とはその閲覧した方々が開いた、表示した回数であるのではないでしょうか?
ですから単純に考えればBさんのブログを閲覧した方々は大体4つの投稿を見ているということになるのではないでしょうか?」

B「はあ、なるほど・・そういうことになるのですか。
それは知りませんでした。
どうもありがとうございます。
それで、閲覧された各々ブログの回数を見てみますと、直近で書かれたブログと類似、関連する内容のものが何故か多くなるのです・・。
こうしたことは以前からそのようなことが続いていたのですが、何だか面白くもあり、また一面において「いい加減なことは書けないな・・。」となるのです。
このことは私にとっては大変ありがたいのですが同時に「一体これは誰の仕業なのだろうか?」とも思うのです。
そしてその正体を自分なりにプロファイルしてみますと、それは人文社会科学系の知識、見識をかなり有した人ではないのかと思うのですが、そうしますと私の知人である場合、かなり限定されてきます・・。」

A「ブログを書いていると、そうした楽しみも出てくるのですね()
ともあれ、その正体が何時の日か判明する日はくるのでしょうかね?
また、そのためにもBさんのそのブログはもう少し続けた方がいいのではないかと思います()
あと、あらかじめお伝えしておきますが、その正体は私ではないですよ()。」

B「はあ、そうですか・・
この質問は以前、別の方にもしたことがあるのですが、その方も「私ではない。」とおっしゃっていました・・。
そうすると私の知人の中で該当しそうな人はかなりに少数に絞られてきますが・・では一体誰がその閲覧者の正体なのでしょうかね?」

A「・・ううむ、そうなるとそれはBさんがすぐに思いつく人ではないと思います・・。
とはいえ、少なくともそれらは悪意のある行為ではないようですので別に気にすることはないのではないでしょうか?」

B「ええ、まあそれはそうですし、以前はあまり気にもしなかったのですが、ブログ作成について考えたりしますと、そういったことも自然と考えてしまうようになるのです・・。
しかしながら、だからといってそれが作成するブログに大きく影響するというわけでもないのですが・・。
ただ、それもまたブログのネタにはなるのではないかとも思いますが()。」

A「・・ええ、その調子でいいと思いますよ()
それにいつか機会があればそれが誰だかわかる日もくると思いますし・・。
まあ、気長にブログを書き続けていれば、また何か違った面白いことも起きるのではないかとも思います(笑)。」

B「はあ、そのようなものでしょうかね・・。
それでしたら、まあ特に深く考えずにブログを書き続けようと思います。
しかし私はそういった誰かをプロファイルして探索するセンスみたいなものはないのでしょうかね?」

A「いえ、それは私もよくわかりませんし、また、それは今考えてみても特に有益ではないと思いますので、まあ、そのまま放置安定でいいのではないでしょうか・・?」

B「なるほど・・放置安定ですか、まあ、そうですね。
とりあえず求職活動と同様、地道に続けて行くことにします。
あと地道といえば、先日新しく購入したブログのネタ帳がもうすぐ最後のページまで行きそうです。
ここ最近、自身の対話形式のブログの数を増やそうとしていましたので、その影響がこのような形で表れたのではないかと思います・・。」

ABさんのブログのネタ帳はもしかして今も無印のリングノートですか?」

B「・・ええ、そうです。
しかし何故そのことを御存知なのですか?」

A「それはBさん修士院生の頃から同じノートを使っていませんでしたか?
あの頃はたしか万年筆で色々とノートに書き込んでいましたが、その時のノートはまだ残っていますか?」

B「・・ええと、多分どこかに残っているはずであると思います。
あれも今読み返してみますと多分ブログのネタになりそうなことがいくらかは書かれていると思いますが・・
しかし、ブログのネタになりそうなことがより多く書かれているのは在鹿児島時代に記したノートではないかと思いますが・・。」

A「鹿児島時代のノートはどのようなことを多くかれていたのですか?」

B「そうですね・・日々起きたことや、実験の進行に関しての感想などが多かったと思います。
あとは読んだ本、論文の感想なども書いていたと思います。
Aさんが御存知であると思われる本は、そうですね会田雄次の「アーロン収容所」や大岡昇平の「俘虜記」あとは小松真一という方の「虜人日記」ですかね・・あの頃は何故か国内外の収容所ものの著作を集中的に読んでいましたね・・。」

A「・・それもなかなか興味深い現象ですが、ともあれBさんはそれらを何といいますか客観的に読んでいたのですか?それとも感情移入して読んでいたのですか?」

B「・・ええと、それは概ね後者であると思います。
しかし私は思想系の著作にしろ大抵は感情移入して読んでいると思います。
そうしたことを判断する好例としてニーチェの「ツァラトストラかく語りき」で挙げられると思います。
あの著作を読んで落ち込むのはそこで語られている対象を自分に近いと感じているからであり、逆にそれを読んで奮い立つのはどちらかというと他者の物語として感じているのではないでしょうかね?
しかし、それで私が思うことは我々日本人とは、どこかそういった著作を前者、つまり他者の書いたものとして読むような傾向があるのではないかと思います。」

A「ええ、たしかにそうであるかもしれません。
また、それは論文と散文を読む時における立場の違いにも通じるものがあるのではないかと思いますが・・?」

B「基本的に論文などは客観的な立場、他者の書いたものとしてで読みますからね・・。
そうしますと我々は物語、思想系の著作も論文と同じスタンスで読んでいるのですかね?」

A「・・ううむ、多分その根底には能動性の多寡があるのではないでしょうか?
我々はあまり人が専攻しないような分野の院に進みました。
そしてそこではとりあえず文献を多く読まないとどうにもなりませんよね?
ですから、そういった専攻分野に進む連中というのは一般的に見れば、かなりの変わり者、変人であり、それがどのように変っているかといえば、思想系や重い内容の著作を能動的に読めるという何かよくわからない情熱があることではないかと思います。
そしてそこには現代社会における効率性、功利性と相反する何かがあるのではないかと思います。
ですから、理系学問分野は別ですが、人文社会科学系の学問が浮世離れしている、実利的でない、コスパが悪いなどといわれるのはそういったところにあるのではないでしょうかね?
まあ、戦前の高等教育とは、そうばかりでもないようでしたが・・。」

B「そうですね。
それはたしかにあると思います・・。
ですからやはり著作を読む時の立場、能動性、モチベーションとは、なかなか重要ではないかと思います。
こういっては何ですが書籍自体を自然に読む習慣のない方々はおそらくその能動性の重要さを認めようとしないでしょうが・・。
それでも実はそれが現代の我々の社会に見られる反知性的な傾向の一つの根源ではないかと思いますが、どうでしょうかね?」

A「・・ええ、おっしゃることはよく分かります。
それは日本社会が基層において性悪説に基づき、それではどうもカッコが悪いから表層を性善説で取り繕っているようなことが原因ではないでしょうかね?
あるいは福沢諭吉がどこかで述べていた明治政府に対する批判として「多情の老婆」と評していたことをも想起させますね・・。」

2015年12月23日水曜日

20151223 科学、再現可能性そして文系学問について

A「今まで大体半年程度ブログを続けてきましたが、その中で自身で書いたものは全体の30%程度です。
ですから、現在で50幾つかが自身の書いたものであり、その他は大体書籍の引用、抜粋か動画となっています。
つまり純粋に自身の書いたものは、ブログを書き始めてから概ね3~4日に1回の割合で投稿、更新しているような感じになります。」


B「はあ、それはなかなか書いているのではないかと思います。
また、大体一つのブログが以前おっしゃっていたように2000字程度であるとすれば、これまでに10万字以上は書かれたことになりますので、これは400字詰原稿用紙で250枚ぐらいにはなりますから、まあ少なくはないと思いますよ・・。」


A「なるほど、原稿用紙で250枚程度にはなるのですか・・。
それでしたら、そこそこ書いたのかもしれませんね。
しかし、今度は出来るだけ自身の文章の割合を増やしつつ200回目の投稿まで行ってみたいですね()。」


B「ええ、そうした努力は続けられるといいと思いますよ。
それにしても先日Aさんからお聞きした「ロジコミックス」の中でウィトゲンシュタイン兵棋演習で使用するコマ(兵棋)を作成し、そこから実体と、それを象徴するものの関係性に思いが至るという描写がありましたが、あれは私が読んだ書籍では、たしか交通事故の裁判か何かで事故の実態を再現するための道路と自動車のミニチュアでその発想が浮んだと記されていましたけれど実際はどうなのでしょうかね?」


A「ああ、それでしたら私も以前読みました。
たしか「哲学大辞典」の中で同じような記述を読んだことがあります。
しかし、まあ大意はあまり損なっていないと思いますし、また、それはあくまでも創作、創造であり、あまり気にすることもないのではないかと思います・・。
また、そうしますと私が現在書いているブログにおいても類似したことを行っていると思いますし・・(苦笑)。
あるいは、それはまったくの嘘というわけでもありませんし・・。
ただ、一方において、これが何か実証的な論文などである場合は無論マズイとは思いますがね・・。
また、そういった何といいますか、遊びの部分の有無あるいは多寡が散文と論文の大きな違いではないでしょうかね・・?」


B「たしかにいわれてみるとそれはあるかもしれません・・。
ううむ、遊びの部分の有無ですか・・。
そうしますと、特に理系の論文などはデータから文章に至るまでおそらく細心の注意を払って書かれなければならないのでしょうね。」


A「ええ、私もそこまで深くは知りませんが、とりあえず理系の論文などはあくまでもデータありきなのです。
ですからそのデータがどのような過程、工程で生じたかは極めて重要なのです。
理系分野の研究において最も大事なことは再現可能性ですから・・。」


B「再現可能性ですか・・。
たしかに理系分野では、それがなければ何をもって実証性があるのかわかりませんからね・・。
しかし、だからといって再現可能性があるものだけが実証性があり科学的ということではないとも思いますが・・。」


A「ええ、それはおっしゃる通りであると思います。
また、これは決して悪くいうつもりではないのですが、理系の研究者などは、その人が優秀であればあればある程、その科学的な方法による実証性といった考えを信じきっているフシがあるのではないかと思うことがあります・・。」


B「その点、昔ながらの人文社会科学系の研究などはスパッと何かを実証することは殆ど不可能に近いですからね・・ある意味羨ましいです・・。
ただ、そうした理系学問的な明快さばかりが有益であり、ひいては社会にとって有用であるというような考え方は、なんといいますか全体主義的な社会と大変親和性があるように思えてしまうのですがね・・。」


A「ええ、Bさんのおっしゃることはよくわかります。
社会ダーウィニズム優生学などですよね・・。
そして、それはおそらく双方学問分野における方法論の違いに大きな原因があるのではないかと思います。
そして、そういった人文社会科学系学問の一種の歯切れの悪さも楽しめるような社会の方が、精神的にゆとりがあり、遊びの部分があって持続可能性、伸代もあるのではないかと思うのですがねえ・・。
しかし一方、そうした考えは、特に我々日本人にありがちな勤勉性と相反するものではないのかとも思いますが、これはどうなのでしょうかね・・?」


B「ううむ・・さきほどのウィトゲンシュタインでの話しとからめて敷衍しますと、おそらく理系学問分野においては文字、数字、グラフあるいは画像などといった実体の状態を示す象徴的なものがより実体に密着しており、一方、人文社会科学系の学問分野で用いる文字、文章などは、それが示す実体、観念との間に多分、理系学問分野に比べゆとり、遊び、つまり認識の多様性が生じる隙間みたいなものがあるのではないでしょうかね・・?」


A「・・なるほど、それはたしかにおっしゃるとおりであると思います。
そして、何故現在の科学的学問の直接的な起源とされる西欧の学問分野において、古典や詩が重要視されているのかも、そういったところに理由があるのかもしれません・・。」


B「そうですね・・。
日本の古典や詩が現在流行の理系学問分野と結節することは多分なさそうですし、また、あったとしても、それはかなり珍妙なものになりそうですので、現在のこの状況も夏目漱石や小林秀雄が慨嘆したように仕方がないものなのでしょう・・かね?」




2015年12月21日月曜日

20151222 最近の読書の傾向について

ABさん、最近はどういった本を読みましたか?」


B「ええ、これまでの蔵書は寝る前や移動時などに読んでいますが、思想、哲学系などの重いものは継続的に読めないのでここ最近は御無沙汰です・・(苦笑)。」


A「はあ、そうですか・・。
そういえば先日Bさんのブログに載っていたラッセルの生涯を扱ったマンガはどうでしたか?」


B「・・ああ、そのマンガはつい先日購入しました。
マンガなのでとても読み易かったですが、もし興味があるようでしたら今度持ってきますよ。」


A「そうですか。
それはどうもありがとうございます。
でしたら是非お願いします。」


B「では今度持ってきます。
そういえば、その本を購入した時にヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の新訳本を見つけました。
最近はそういった古典などの新訳本がよく刊行されているようです・・。」


A「そうですか・・あの著作は院生時代の夏休みに輪読会をしましたね()。」


B「ええ、そうです。
あの著作は輪読でもしないと、なかなか読もうとは思いませんからね()
しかし、あれをやったお陰でその後色々と読むことができたのではないかと思います。」


A「そうですね。
私もあれがきっかけで本に赤線を引いたり、コメントを記入したりするクセがついたのではないかと思います・・。
加えて、あの時期に読書と議論に没頭できたことは今考えてみると大変貴重な経験であったのではないかと思います。」


B「あれは私にとっても大変貴重な経験でした。
その後、異なった学問分野に進んでもあの時の経験やノウハウがあったお陰でどうにかなったのではないかと思います。
それでも今となっては多少戦線を拡大しすぎたのではないかとも思うこともありますが・・(苦笑)。」


A「いえ、それはそうであるかもしれませんが、同時にそれが他の人が真似できないBさんの長所なのではないかと思います。
ただ、それを長所として認識してくれる方々がどれくらいいるのか?というのが現実的な問題なのではないかと思います・・。」


B「まあ、それはそうなのですが、私も最近ではどういった仕事が出来るのだろうか?と多少不安に思うことがあります。
そして、こういった不安、悩みにはどのような出口があるのだろうかとも思います・・。
ただ、これまでの求職活動の様々な場面において時折あったのですが、博士課程というと何かただ遊んできたのではないかと思われるようなフシもあるようなのです・・・・。」


A「・・ううむ、基本的には好きなことをやっているわけですから、そう思われても仕方のない部分はあるとは思います。
しかし、そこでやってきたことは、大体においてその分野における研究の最先端であり、また、そこで研究活動をするためには、様々な周辺知識、あるいは分野によっては技術の修得が要求されるわけですよね・・。
そうしたことを続けていると、やはり何かしら人格が変ってくるのではないかと思います。
そして、多くの企業等からすると、そうした人格とは使い難いものとして敬遠し、その理由付けの一つとして、そのように思っていることを匂わせるのではないかとも思います・・。
しかし何れにしても、これは難しい一種の社会問題であると思います・・。」


B「ええ、それは私もよくわかります。
多分、博士課程まで行ってしまいますと、どのような分野であれ、言語の普遍性?にまで達してしまうのではないかと思います。
そうすると、多くの場合、雇用側は自身の方が立場が上であるということを示すことが難しくなってしまうのではないかと思います・・。
つまり、多くの企業は、一種のモラハラのような悲しい方法を用いて被雇用者を統治、支配しているのではないかと思います・・。
これは今考えてみますと、私の会社員時代においても、そういったことが多々ありました。
また、現在においても、そうした状況は特に改善されていないと思います。
そして、こうしたことは仕組み、システムのみを変えても改善できるようなものではないと思いますので、今後もこの状況が大きく変化、改善する可能性は低いのではないかと思います・・。
いってみれば戦前陸軍の内務班的なものが多くの日本の組織における統治、支配における継続的、伝統的なバックボーンになっているのではないでしょうかね・・?」


A「・・・それは大変根が深い問題であることは私もよくわかります。
また、こうしたことは外国に向けて発信しても、おそらく改善されることはないと思います。
むしろ、そうした状況を利用して日本を支配下に置こうとするかもしれません・・。
ですから、こうしたことは主に我々日本人の手で徐々に改善していく以外ないのではないかと思います・・。
しかし、現在の我が国の社会を考えてみますと、楽観視はできないですが・・。」


B「また、こうしたことを見続け、観察し続けることは結構きついものがあり、それであれば金色夜叉式に「いっそのこと自分が搾取側にまわってやれ!」となり、こうした社会を批判する人間を生産性のない一段低い存在として扱うようになるのではないでしょうか?
しかし、そうした開き直った立場だけが生産性があり、現実的であるならば、何故、現在の我が国では、こうした閉塞といってもいい状況が続いているのでしょうかね?
そうしますと私は先ほど話に出ましたヴェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を思い出すのです・・。
もっともあれが全て良いとは思いませんし、また、そうしたハビトゥスも時間の経過と共に変化、腐敗してくるとも思いますので、そうした精神の健全性を保つためにこそ、鍛錬するためにこそ、人文社会科学的な教養の存在価値があるのではないでしょうか・・?」


A「ええ、それはおっしゃる通りではあると思います。
しかし教養は何であれ絶対に強要できないものですし、学校の科目などとして、少しでも強要してしまえば、その時点で多くのそれが本来持っていた価値が損なわれてしまうのではないかと思います。
それ故、ひと口に教養教育といいましても、実に難しいものがあるのではないかと思います・・。」


B「ええ、そうですね。
教養は絶対に強要できないし、どんな形であれ強要すれば、それは何か違うものになってしまうのでしょう・・。
加えて博士課程の問題も実はそこらへんにあるのではないかとも思います・・(苦笑)。」

20151221 詩、詞および文字、音声言語について

A「先日Bさんのブログを読ませていただきましたが、パリでのテロを「KAMIKAZE」と報道されたことが書かれていました。
あれには少しヒヤヒヤしました。
しかし全体的な内容に関しては特に問題はなかったと思います。
それでもああいったことを書くのは何といいますか、バランス感覚が必要であり、また中傷、非難される方々が出てくる可能性もありますので、少なくとも求職活動されている現在は多少筆を抑えた方が良いのではないかと思います・・。」


B「アドバイスどうもありがとうございます。
あの回は私も書いた後に少し考えて、投稿を止めようかとも思いましたが、特に我が国、外国を貶める目的もありませんし、また、そのように思われる記述もないと思いましたので、投稿後、多少加筆訂正するに留めたのです。」


A「ああ、そうだったのですか。
私も何だか検閲みたいで、このことをBさんにお伝えすることを多少躊躇しましたが、そうした経緯を知ることが出来まして少し安心しました。
ともあれ、繰り返しになってしまいますが、今現在ああいったセンシティブな時事ネタをブログなどで扱うのは、できるだけ控えた方が良いのではないかというのが私の正直な感想です。」


B「ええ、今後も何かそういったアドバイスなどがありましたら、是非お教えください。
それで少し話は変るのですがAさんはポエムのなどの良し悪しなどは分かりますか?」


A「・・いきなり唐突ですね()
ううむ、私も一応人文社会科学系の研究者ですが、正直あまりそういった分野のことは考えたことがありませんでした。
それでもたしかに詩の良し悪しを判断する要素、価値観とは一体どういったものでしょうかね?」


B「そうなのです。
私もよく分からないので今Aさんにお聞きした次第なのですが、一方で時折「いいなあ!」ですとか、何かよくわかりませんが琴線に触れるようなものに時折出くわすこともありますので「それらは一体何に因るのだろうか?」と思った次第なのです。」


A「私はポエムの詩はあまり読みませんが、音楽の歌詞などでは「良いなあ」と思うことがあります。
いや、むしろ私の場合、何かしらのメロディの中にある詩、歌詞に感動を覚えることの方が圧倒的に多いですね・・。
しかしそう考えると、ポエムの詩と歌詞の詞の違いとはメロディの有無なのでしょうね・・。
そして始原においてはポエムの詩も、何かしらの節、メロディにのせて読まれた、朗詠されたものであると思いますので、メロディの中にある歌詞の方が音声言語により親和性があり、詩の方はより文字言語に即したものではないかと思いますが・・。」


B「はあ、たしかに音声言語が言語の始原であると思いますので、その意味ではポエムの詩よりもメロディありきの歌詞の方がより古いのかもしれません。
そして現在では一般的に歌詞もポエムの詩の一種とされていると思いますので、これは音声言語から生じた、あるいはそれに対応した文字言語が後にオリジナルの音声言語を包含するに至った経緯を示しているのかもしれませんね。」


A「・・なるほど。
そうしますと私がポエムの詩よりも音楽の歌詞の方に感動を覚えるということは、私の感性、感受性がより音声言語対応になっているということなのでしょうか()?」


B「ええ、そうとばかりもいえませんが、少なくとも詩心に関してはそうした傾向があるといったところではないでしょうか?
それでもたしかに昔の歌、童謡などを聞いていると、その歌詞がよりポエムの詩としても通じそうなものが多いと思います。
個人的には童謡の「椰子の実」の歌詞は感慨深いです。
この歌は以前より知っておりましたが、南紀在住時に水平線に沈む夏の夕陽を一人で見ていましたら、不図この歌詞が口から出てきたことがありました・・。
それ以来、何故だかこの歌は好きになりました()。」


A「ええ、そういう経験はたしかにありますね。
しかし、そういった場合、特にメロディを伴う歌詞でなくとも良いのではないかとも思いますが・・。
しかし一方、それがメロディの中にあるものであれば、何といいますか、メロディを伴わないものに比べ、容易に想起することが出来るのかもしれません。
そうした意味において、メロディがあることにより、ポエムの詩、歌詞とは、より身体性を持つようになるのかもしれません。」


B「詩、歌詞とは、メロディの中にあることによって、より身体性を持つという御意見は大変興味深いです。
それは丁度、舞踏用の音楽あるいは軍隊の行進曲が生まれた経緯などにも通じる要素があるのかもしれませんね。
そうしますと、メロディとは音であり、それだけでは明確な言語的な意味はありませんが、それでも我々の精神の言語以前のよりプリミティブな層を活性化させる何かがあるということですね。」


A「ええ、多分そうであると思います。
こうしたたとえは少しおかしいかもしれませんが、歌詞を伴う楽曲とはラーメンのようなものであり、その中で明確な意味を示さないメロディ、音楽とはスープであり、一方、その明確な意味を示す歌詞とは歯ごたえのある麺にたとえることができるのではないかと思います。
そして同じメロディで違う歌詞を用いる楽曲の2番、3番はまあ、博多ラーメンでいうところの替玉みたいなものではないでしょうか?
また楽曲とは、ラーメンと同様、そのメロディつまりスープの良し悪しにより大きく依存していると思います。」


B「・・・なるほど、それはなかなか秀逸なたとえですね。
ちなみに、それでしたらチャーシュー、煮玉子、ネギ、キクラゲ、辛子高菜、ゴマなどはどうなるのですか()?」


A「・・ううむ、それらはスープと麺つまりメロディと歌詞をつなぎ、全体の深みをより増すものであると思いますので、そうですね・・楽曲の演奏における特徴的な楽器などの使い方などに相当するのではないかと思いますが・・。」


B「はあ、なるほど、それもなかなか面白い御意見ですね。
また、そうしますと、我々の言語全体に対しても、そのように考えることが出来るのでしょうか?
つまり、言語全体がラーメンであり、その中で、よりメロディに近い音声言語はスープであり、文字言語は麺であるといった感じになるのでしょうか?」


A「うーん、それはどうであるかわかりません・・。
しかし、それでも少なくとも関東地方では、麺を主体としたもりそばは一般的に男性の好きな食べ物とされているのはなかなか興味深いですね。
つまり、少なくとも我が国においては文字言語は長く男性のものとされてきました。
そしてそれを先ほどの「文字言語は麺である。」に対応させてみますとどうでしょう・・?」


B「・・なるほど、それもまたなかなか面白く興味深い御意見です。
また、そう考えますとヨーロッパの言語で男性、女性あるいは中性名詞があるのも何となくその伝で理解できるのかもしれませんね()
合っているかどうかわかりませんが・・。」





2015年12月18日金曜日

20151218 創作と環境について

A「年も押し迫ってきましたが、その後求職活動で何か動きはありましたか?」

B「ええ、つい先日面接で**まで行ってきました。
近いうちに結果のご連絡をいただけるとのことでしたが、今現在はわかりません。」

A「そうでしたか・・結果がわかるまでは落ち着きませんが、良い結果であるといいですね。」

B「そうなのですが、同時に今現在結果待ちの応募がいくつかありますので、この先また、どの様に変転するかは自分でもよくわかりません・・。
しかし、それで先日面接で行った**においてもブログのネタを探したり、ネタ帳の記入を試みたのですが、何故だか上手い具合に言葉が出てきませんでした。
もしかしたら無意識ながら緊張していたのかもしれませんが、これはこれで不思議なものでした(笑)。」

A「ああ、環境が変ったりするとそういうこともあるらしいけれど、私などはノートPCなどは持ち歩いているので、ネットが繋がる環境であれば、メールの返信などは普通に行っていますね。」

B「たしかに多忙な先生方は、どこに行かれる場合でも大抵ノートPCを持ち歩いて、宿泊先のホテルなどでもお仕事されていますね。
しかし私の場合はまた少し違うと思います。
つまり、少なくとも今現在においては、私のブログとは職務でもないですし、また特定の誰かへの反応、リアクションというわけでもありません。
そうした何といいますか、茫漠とした意識状態からテーマを決め、それを結晶化させるということはまた少し異なった意識の働きなのではないかと思うのです・・。」

A「・・うん、まあそれはそうであるかもしれないけれど、同時に多くの方々は出先においても様々な創造的活動をされていると思いますよ・・。」

B「はい、それもまたおっしゃるとおりであると思います。
ですから今回の件は、純粋に私の経験あるいは能力不足であると思います。
とはいえ、ブログのネタなどを考え、それをノートに記していて、その作業にノッてきますと私はそこに没入していると思います。
それは自分を客観視できていない状態です。
そして逆に客観視できている状態では、あまり文章は進みません。
これはなかなか面白いことであると思いますが、それでも創造や創作といった行為とは、大体その様なものではないかと思います・・。
また、このことは以前のブログで引用した北杜夫の文章においても類似したものがあったように思います。
ですから、何故、先日の**に行った時に、この作業に没入できなかったのかとは、私自身の中では、いまだ解決されていないものであり、同時に今後解決が望まれる課題でもあることが判明したのです・・。
かなり言い訳がましくなりましたが、まあ、そのような感じです()。」

A「言わんとする内容はわかりました・・。
そうするとBさんは御自分が、この場合では、どの様な状況においてもブログのネタ帳作成に没入できるスイッチのようなものを探しているということですか?」

B「ええ、今回の件でそのように思うに至りました・・。
また今後、そういったことを自身で意識できるようになれば、現在よりは多少良いブログを作成することが出来るのではないかとも思います。
まあ、何れにしましても今後また様々な試行錯誤を試みてみます。
しかしそうしますと今度は試行錯誤が目的になってきそうで、それが少しこわいところです・・()。」

A「うん、まあ書くのに最適な外的環境を探し求めるよりも、今現在においては、より多くの状況において書くことが出来るような内的環境を模索することの方が適切であると思いますね。
とはいえ、今の話を聞いていて思ったのは、最適な内的環境の模索はいいけれど、それは具体的にはどういったことを指すのだろうかね?
たとえば自分自身の文体の確立なのだろうか?あるいは平静な精神状態などといったものなのであろうか?はたまた、それらを絶妙に混合したものなのだろうか?
まあ、そのように考えてみると、最終的には各々個人で納得できればいいのでしょうが、そうすると今度は、ではそれは普遍的、つまり万人にある程度共通していて定量化出来る様なものなのであろうか?そしてそうであるとすれば、それはどの様な方法で証明することが出来るのか?といった疑問が湧いてきますが、これは今現在の段階では飛躍し過ぎた問いであるのかもしれません・・()。」

B「・・ええ、たしかにおっしゃることはよくわかります。
しかし、とりあえずは自身で色々と試行錯誤してみて、まあNを稼ぐ以外ないのではないかと思います・・。
あ!それで今思い出しましたが、私は修士院生時代に民俗学に近いようなことを研究していましたので、度々フィールドワークに行っていたのですが、その際、ある地域を自分なりに把握するため、地域内寺社の来歴等を調べておりますと、偶然に目的とはまったく異なってはいますが大変興味深い史実の痕跡に出くわすことが多くありました・・。
そして、そうした経験から、それら全て総合し物語れる地域の歴史を構築することが、少なくとも一面において地域を把握することなのではないかと思うに至りました・・。
また、こうした見解に至るまでの経験とは、客観的な科学的根拠は明示できないのですが、同時に他の分野で研究をされている方々に聞いてみても類似の経験をされていることを多く聞きますので、上手く表現はできませんが、何かしらそうした見解の方へ引き寄せられたような感覚があるのではないかと思います・・。」

A「・・・うん、たしかにそういった縁みたいなものは私も経験したことがありますが、かといって、そればかりに頼るとそういうのはダメみたいで、それはBさんのブログでも書かれていましたね・・。
ともあれ、ああいったことは不思議で、上手く説明がつかないけれども、何かあるのかもしれません。
キリスト教の言葉でいう「コーリング」みたいなものなのでしょうか?
とはいえ、そういったところで安住し続けていてもダメなようですので、あせらずに探求し続けることが肝要なのではないかと思います・・。」

B「ええ、そうですね・・。
そしてそれは日本語で「人事を尽くして天命を待つ」といった意味合いになるのではないかと思いますが、どうでしょうか?」

A「うん、そういった感じで間違いではないと思います。
またゲーテの箴言で「大きな必然は人間を大きくし、小さな必然は人間を小さくする。」といったのがありましたが、これも何かしら類似する意味合いを持っているのではないかと思います。」

B「・・・必然の大小を誰が判断するのかは分かりませんが、なるほどです。」

また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。