2016年11月6日日曜日

20161106 470記事到達 文学から歴史 歴史から文学

お蔭様で昨日のブログ閲覧者数も1000人に到達しました。
また、それと同時に今回の記事投稿により総投稿記事数が470に到達します。

そうしますと、残り30記事にて500記事へ到達ということになりますが、これは直近の450記事から考えてみますと、今回の470記事到達とは、割合早かったものと感じております。

そして、年内中に500記事到達までの残り30記事の投稿ということになりますが、今年は残り50数日でありますので、まあ3日に2日程度の頻度にて新記事の投稿、更新を行っていけば、特に無理なく年内中に500記事に到達することが出来そうです。

とはいえ、そこであまり気を抜いてしまいますと、後になり、しわ寄せが来ますので、出来る限り毎日に近い状態にて500記事到達まで記事作成、投稿を行って行こうと考えております・・。

さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部も先ほど読了しました。

第二部は昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦すなわち真珠湾攻撃のあたりでハナシが終わっており、これが次の結末たる第三部にどのように続くのか楽しみです・・。

また、こうした長編小説を母国語にて著すことが出来る歴史・文化を持つ我が国とは、やはり様々な点において優れた要素を持っているのではないかと改めて考えさせられます・・。

しかし、そうは云いましても文化というものは、おそらく発展し続けるものではありません(この著作が著された時代に比べ現代の我が国が発展しているとは必ずしもいえない)。


具体的な刺激、精神の活性ながどといった要素が減衰、欠如していきますと、それはやはり衰頽、荒廃してゆくものであると考えます。

そして、そうしたものとは経済、文化的にある程度までの発展を遂げると必ずしも直線的にではありませんが、必然的に衰頽、荒廃に向かって行くのではないかと思われます。

そして、それが様々な国家、地域などの興亡の歴史における大雑把な枠組みであるように思います。

もっとも、こうしたことは既にかなり陳腐なこととして認識されているとは考えますが・・。

ともあれ、このような興亡の歴史の流れを一つ認識し、それに対する認識をさらに深化させるという意味において、さきに挙げた「楡家の人びと」とは、適当な材料になるものと考えます。

そして、このように何か一つの題材を深化させる過程において、必然的に近現代史から文学に結節、あるいは逆からのアプローチであれば文学から近現代史に結節するというのが一般的な文系学問の研究における見取り図であるように思います。

やはり、こうした意味でのタコツボ化とはあまり良いものではないと私は考えます。

ともかく、いくつかの分野において、ある程度の認識に達しますと、何といいますか、自然とそれら分野の認識の深層の方から根が生じ、それらが深層において絡み合うことにより、何とも表し得ぬ極めて個人的な学問体系が生成するのではないかと思われます。

こうしたことは、コトバを以て説明するより、実際にそういった人物の著した著作を読むことにより判然とするのではないでしょうか・・?

その私見による具体例として南方熊楠、金関丈夫などが挙げられると考えます。

また、多少スケールが異なりますが、これまでにブログ記事にて記した私の師匠の方々もまた、皆、そうした傾向があるのではないかと思われます・・。

そして、ここまで記していて不図ゲーテの言葉を思い起こしましたので下に示します。

ユーモアは天才の一要素である。しかし、それが勝ち過ぎると、天才の代用品に過ぎなくなる。それは、芸術の下落を伴い、ついには芸術を破壊し、滅ぼしてしまう。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。



20161105 文章、文体、認識の枠組みについて・・

A「先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部の200頁まで至りました。

こうした長編小説とは、ある程度期間のインターバルを設けて読むと、読書の進行が多少早くなるものであるのかもしれません・・(笑)。

また、この著作は自身の感想としては大変面白く、おそらくこの土・日曜日の間に第二部もまた読了に至るのではないかと思われます・・。

そしてその後さらに第三部(最終部)読了に至ったならば、今度は同著の英訳版を購入し読んでみようと考えております・・。

英訳された日本の小説とは、著作によっては(私にとって)大変高価なものもありますが、幸いなことに、この著作については比較的手頃な価格にて求めることが可能であるようです。

また、以前投稿したブログ記事においても記しましたが、この著作は、現代の若い方々が読まれると何か面白い、不思議な感覚、認識を得ることが出来るのではないかとも思います。

いや、こうしたことはむしろ一般的であり、あるいは論理一辺倒の科学的な論文などにおいても同様であるのかもしれませんが、我々とは、何かしらの著作、文章を読むことにより、肯定的、否定的であれ、そこから様々な感覚、認識を惹起します。

そして、その(感覚、認識の)蓄積、そしてそれらの精神内部における経時的な反応、化合等に加え、実際の経験を積むことにより、より大きな観念、思想といったものの核が徐徐に形成され、それが様々な形で文字、言語を以て表出されることにより、明瞭化、体系化された観念、思想と称するに堪えうるものとして顕現に至るのではないかと思われます・・。

そして、こうした営みとは無意識である場合も多いのではないかと思われますが、何れにせよ殆どの方々が日常的に行っていることであると考えます。

ただ、そこで特に重要であると思われることは、実際の経験とは、各人各様に日常生活を送る上にて得ているのでしょうが、それ(経験)を認識するための、あるいは認識の枠組み(言語化、評価)を形成するための基盤、母材(マトリックス)として、何かしらの文章、そしてその文体の果たす役割の大きさということです。

そして、これが各人各様である経験をある一定の方向へ収斂するものであると同時に、その個性、特徴を発揮する基盤でもあるということは、なかなか面白いことであると思われます・・。

その意味において広告、出版業界とは、依然として、ある程度大きな影響力を我々の社会に対し有しているのではないかと思われます・・。

しかしその一方、さきのブログにおいても記した通り、昨今、インターネットの普及により、膨大な情報が容易に広く入手可能となり、これまでのマスメディア、新聞、出版業界が関与、把持してきた認識の枠組みの重要性が希釈されつつあるということもまた事実であると思われます。

とはいえ、この認識の枠組みの重要性とは本質的(人間に付随する能力としての価値)には希釈される性質のものではないと考えます・・。

それ故、訪れつつある新しい時代においては、おそらく我々と文章そしてその文体(認識の枠組)の間にもまた、何かしら大きな変化が生じる、いや生じつつあるのではないかとも思われるのです・・。

それが如何なるものであるかは分かりませんが、あるいはこうしたこともまた、歴史の進行およびその方向性に対し、大きく関与しているのではないかと考えます。

また、それが古来より云われている「言霊」に関連するものであるのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震、昨今山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」