昨日分の投稿記事にて扱った著作に『我々人類が大勢で他者と協力し、共通の目的のために働くことが出来るようになった要因とは、言語を介して、ある種の虚構を互いに信じ、共有することが出来るようになったからである。』といった意味のことが書かれ、また、その具現化・対象化されたものが弥生時代の青銅製祭器・古墳時代の古墳などであると自説として書きましたが、こうした構造自体については、現代においても変化はしておらず、法人・株式会社などといった組織、さらにはそれらが扱う貨幣もまた、そうした構造に依拠していると同じ著作内にて述べられています・・。
こうしたことを日常生活にて考える機会とは多くはありませんので、時折はこうしたことに思いを巡らす機会を得るという意味においても、ある種の読書とは自身にとって、それなりに意味があるものと考えます。
また、同様にこうした記述を読んでおりますと、思い起こされるのは、近年多く亡くなられ、現在はほぼ見受けることの出来なくなった戦争経験を有する研究者・著述家が、それぞれの著作にて書いている大戦末期の戦線・規律が崩壊した戦地における状況です。
こうした状況とは、冒頭に書いた設定としての(信じ得る)虚構が全て剥ぎ取られ、むき出しの生への欲望のみによって支配された空間であり、また、そうした状況・空間の様子とは、戦地から生還された方々の多くが周囲に語ろうとしなかったのではないかと思われます。
何故ならば、こうした状況とは、さまざまな仕組み・虚構を当然のこととして現代社会に生きている我々からすると、きわめて野蛮・残酷なものであり、口外することを躊躇される内容を含むものであったからであると考えます・・。
それ故にか、我が国のみの傾向であるのかどうか分かりませんが、こうした状況の詳細とは、多くの場合文章によって著されていることが多いように思われます。
また、こうした心に刻まれるような、ある種の痛ましい状況の記憶とは、画像・映像化されることにより、多くの人々に認知されることは多くなるのでしょうが、その反面、ある種の陳腐化・紋切り型的な認識に堕してしまうといった傾向があるようにも思われます。
それ故、こうした記憶が辿ってしまうことを避けるべきであるのが、こうした、いわば『安易な認識』ではないかと思われるのです・・。
『安易な認識』とは、痛ましい記憶がもたらす衝撃を幾分かは和らげはするのでしょうが、それと同時に『何故、当時、我々の先祖たちは、こうした状況に入って行かなければならなかったか』を(真剣に)考えなくなってしまうのではないかと思うのです。
ともあれ、その根源的な原因については未だよく分かりませんが、我々日本人が持つ文化には普遍的に、こうしたある種の抽象化の傾向があり、それはおそらくなくなるものではなく、間断なく常に、我々自身の持つ記憶を最適なものに変換しようと願いながらも、それらの実施の段において意味・意図が不明瞭なものとなり、それを以ってはじめて社会が受け入れ・悦ぶといったような、どうもよく分からないところがあるのではないかと思うのです・・(苦笑)。
そして、それは冒頭に書いた信じ得る・共有し得る虚構に対する国内さまざまな社会・集団による認識のズレを示しているのではないかと考えますが、これもまた、かなり奥が深い問題であるように思われます(マンガ文化とは、こうしたことをあまり感じさせないが故に人気があるのかもしれません・・)。
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域におけるインフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。」