2018年11月23日金曜日

20181123【書籍からの抜粋引用】岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.307-311【ナショナリズムについて】

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.307-311

『『ナショナリズム』というときわたしがまっさきの考えるのは、人間を昆虫と同じように分類できるものと考えて、何百万、何千万という集団をひとまとめに、平然と「善」「悪」のレッテルを貼れるときめてかかる考え方である。

だが、その次に考えるのはーそしてこの方がはるかに重要なのだがー自分を一つの国家あるいはこれに似た何らかの組織と同一視して、それを善悪を超えた次元に置き、その利益を推進すること以外はいっさいの義務をみとめない考え方である。ナショナリズムと愛国心ははっきり違うのだ。

二つの言葉はふつうきわめてあいまいに使われているから、どんな定義を下してみても異論が出るだろうが、ここには二つの異なったというより対立する概念が潜んでいるのであって、両者ははっきり区別しておかねばならない。わたしが「愛国心」と呼ぶのは、特定の場所と特定の生活様式に対する献身的愛情であって、その場所や生活様式が世界一だと信じてはいるが、それを他人にまで押しつけようとは考えないものである。愛国心は、軍事的にも文化的にも、本来防御的なのだ。

ところがナショナリズムのほうは権力志向と固く結びついている。ナショナリストたるものはつねに、より強大な権力、より強大な威信を獲得することを目指す。それも自分のためではなく、個人としての自分を捨て、その中に自分を埋没させる対象として選んだ国家とか、これに類する組織のためなのである。

この言葉の対象を、ドイツや日本をはじめとする悪評高い明白なナショナリズム運動に限るなら、こんなことはすべてわかりきっている。ナチズムのようにわれわれが外から観察できる現象をつきつけられれば、誰もが同じようなことを言うだろう。だが繰り返して言えば、ここで「ナショナリズム」という言葉を使うのは、ほかにうまい言葉がないからで、わたしの考えている広い意味のナショナリズムとは、共産主義、政治的カトリシズムシオニズムユダヤ人差別、トロツキズム平和主義(パシフィズム)といった運動ないし風潮まで含むのである。それは必ずしも一政府一国家への忠誠心であるとは限らず、まして自分の祖国への忠誠心である必要もない。それどころか、その対象になる組織が、かならずしも現実に存在する必要さえないのである。

具体的な例をいくつかあげるなら、ユダヤ世界、イスラム世界、キリスト教世界、プロレタリアート、白人種といったものも、すべて熱烈なナショナリスティックな感情の対象になりうるのであって、こういうものが実在するかどうかは大いに疑わしく、どれをとっても万人が認める定義など存在しないものばかりである。

ここでもう一度、ナショナリスティックな感情が純粋に消極的なものでもありうることを強調しておいてもいいだろう。たとえばトロツキストのばあいにしても、彼らは単にソヴィエト連邦の敵になっただけなのであって、これに類するそれ以外の組織に忠誠心を抱いたわけではない。ここ事実の意味を理解してもらえば、わたしがナショナリズムと呼ぶものの本質も、ずっと明確になる。

ナショナリストとは、威信競争という観点からしか考えない、すくなくともまずそれを考える人間なのである。積極的なばあいも消極的なばあいもあるーつまり後押しするために精神的エネルギーを使うこともあれば、引きずりおろすことに使うこともあるわけだが、いずれにしてもその考えはつねに勝利か敗北か、栄光か屈辱かといった思想を軸に回転する。ナショナリストは歴史を、それもとくに現代史を、大きな勢力の果てしない興亡としてとらえる。そして彼の目には、あらゆる事件が、自分の陣営は上り坂にあり憎むべき敵は下り坂にある証拠だと見えるのである。

だがさいごにもう一つ大切な点は、ナショナリズムを単なる成功礼賛と混同してはならないということである。ナショナリストは、いちばん強いものの味方をするという単純な原理は採らない。逆に、いったん自分の立場を決めたあとは、それが事実いちばん強いのだと言い聞かせて、客観的情勢がどれほど圧倒的に非であろうと、この信念を固守することが出来るのである。ナショナリズムとは自己欺瞞をふくむ権力願望なのだ。

ナショナリストたるものは例外なく、どんな目にあまる不誠実な行為でもやってのけるがー自分より大きなものに殉じているという意識があるためにー自分はぜったい正しいという不動の信念を持つことも出来るのである。』