そして、不図脳裏に浮かんだ、以前学んだものの、現在は意味が分からない、ある用語の意味を調べたところ、不思議なことに辞書引きの最中、その用語の意味が段々と思い出され、辞書引きを終えた時には、その項目を読む前にその大体の意味が思い出されておりました・・。
こうしたことは、不思議であるかもしれませんが、多くの方々もまた似たような経験をされているのではないでしょうか?
また、そこで大事であると思われることは「既にその用語をどこかで学んでいた」ということではないかと思います。
それがなければ、おそらく、その意味を辞書引きのさなかに想起することはなかったのではないかと思います。
また、同時に、かつて学んだことがなければ、それはたしかに「より」不思議、神秘的な出来事であったと思われます。
ただし、それは「思い出す」「想起する」とは、異質なものであるともいえます。
ともあれ、そのようなことから、一面において「学ぶ、研究する」とは、そういったもの、つまり、意識したことを無意識化することではないかと思いますが如何でしょうか?
そして、こうしたことは何も学問、勉強に止まらず、日常生活の様々なことがらについても同様にいえるのではないかと思います・・。
また、それに加え、昨今、その重要性が増していると思われる「専門知識」とは、そのような過程を経て学び、研究することにより得られた「知識の体系」であるのではないかと思われます。
その意味において、特に人体という人類において普遍性を有する分野を扱う医学分野における知識および知識体系とは、その典型であるのかもしれません・・。
また、一方において、歴史などといった古くからの文系学問における知識、知識体系とは、人体、医学などにおけるような普遍性を持つ要素が相対的に少ないため、典型的な専門知識として認識され難いのかもしれません・・(それが現今我が国における文系学問分野軽視の原因ともなっているのではないかと思われます)。
また、同時に、それらの学問(医学に代表されるような理系学問と古くからの文系学問)を教授、学ぶ上での方法論においても、そうした違いがあるようにも思われます。
つまり、理系学問分野における序論、概論よりはじまり各論に至り、適宜その反復を行うことにことにより、その学識を深めてゆくというような、いわば演繹的な方法・・。
その一方、文系学問分野において多く見られる各論ともいえる個別的な事柄の探求を通じ、その研究分野における概論、全体像を把握しようとするような、帰納的な方法といった違いに、何かしら関連性があるのではないかと思われます。
それらは、無論、双方共に重要ではあるのですが、それらの基本的な方法論の相違とは、ひいては、様々な事柄に対し得られる認識の相違そしてさらに、相互の無理解などにも至ることが多々あるのではないかと思いますが如何でしょうか?
そしてここまで書いていてウンベルト・エーコの「薔薇の名前」の作中人物のコトバ「全体性の中に個別性があり、また個別性の中に全体性があることこそ、世界の調和が示されるのである。」といったことを想起しましたが、これもまた、何かしら上記のことに関連があるのではないかと思いましたが、如何でしょうか?」
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、熊本の地震で被災された地域の皆様の暮らしが早期に復旧、復興されることを祈念しております。