2026年1月25日日曜日

20260125 ローヤルゼリーと朝鮮人参から思ったこと

 2026年1月も終盤に入り、首都圏も厳しい寒波のただ中にあります。氷点下に近い気温と乾燥した空気が心身を芯から凍えさせるようなこの時季になりますと、我々は、古来より滋養強壮効果があるとされてきたローヤルゼリーや朝鮮人参などに、自然と関心が向くのではないでしょうか。

 しかしながら、そもそも何故、これらに滋養強壮効果があるのかと考えてみますと、そこには、薬学や栄養学といった、いわゆる理系学問的な知見を超えた、自然界における摂理や、東アジア地域に連綿と受け継がれてきた民俗文化の古層に通底する、ある種の観念のようなものが見えて来るのではないかと思われるのです。

 まず、ローヤルゼリーについて考えてみますと、一つの巣を形成する蜜蜂の社会において、すべてのメスの幼虫は、遺伝子的には同一であると云えます。しかしながら、その中で選ばれた一匹のメスの幼虫だけが、多くの「働き蜂」からローヤルゼリーを捧げられ、やがて女王蜂となるのです。このローヤルゼリーとは、働き蜂が花粉や蜜を摂取し、代謝・再構成したうえで、頭部にある腺から分泌する、女王蜂となるための特別な物質であると云えます。そして、これを摂取し続けたメスの幼虫だけが、通常は数週間で終わるはずの寿命を劇的に延伸させ、毎日数千個の卵を産み続ける「女王蜂」へと変容を遂げるのです。

 この変容とは『一つの生命体の集団が、その存続をはかる中で、働き蜂たちが自らの生命を削り、分泌されたエネルギーの結晶とも云えるローヤルゼリーにより為される』とも云えるのではないでしょうか。

 そしてまた、これと類似した様相は、植物界においても認められます。朝鮮人参は、その生育過程において、土壌中の養分を、収奪と表現しても差し支えないほど徹底的に吸収し蓄積します。また朝鮮人参は、山深い日陰といった、一般的には植物の生育にとって好ましくないとされる過酷な環境において、十数年という長い歳月をかけて、きわめて緩慢に成長します。そして、その過程において厳しい環境ストレスから守るための「防御成分」が、次第に蓄積・濃縮されていくのだと云えます。

 ここで、両者に共通して重要であるのは、こうした人体にとって薬効となる成分とは、「最適化された快適な環境」においては、むしろ生じ難いという点です。ローヤルゼリーが、群れの存続や維持といった強い「緊張」の中で分泌されるのと同様に、朝鮮人参も、仮に栽培環境を最適化すれば、収量そのものは増加するのかもしれませんが、その薬効は著しく減弱してしまう可能性が高いと云えます。

 そうしたことから、「単に生存すること」と、「ある特有の力(薬効)を宿すこと」とは、しばしば反比例の関係にあるのではないか、とも思われるのです。これを換言しますと、集団存続の危機、あるいは環境との緊張関係といった深刻な摩擦の中においてこそ、こうした「特有の凝縮された力」は生じるのではないでしょうか。

 そしてまた、この「環境との緊張関係が特有の力を生む」という構造は、我々の精神活動、ことに才能や創造性の成立過程にも対応するのではないかと思われます。

 我々の能力には、社会生活を円滑に営むための「一次的な能力」と、環境との摩擦や違和感の中から成立する「二次的な能力」が存在すると云えます。読み書きや計算、社会適応力などが前者に属するとすれば、深い洞察や表現力、創造性といったものは、後者に位置づけられるでしょう。

 そして、これは私見ではありますが、後者に属する能力とは、多くの場合、整備された快適な環境において十分に育まれることは少なく、むしろ、容易には適応し難い困難な状況や、長い試行錯誤を強いられる時間の中で、自らの精神が押し潰されぬよう抵抗しつつ、内側に「意味」を蓄積していくような過程を経て、成立することが多いのではないでしょうか。

 こうした様相を踏まえて芸術について考えてみますと、芸術が扱うものとは、必ずしも明晰な理論ではなく、我々の内部に保存された「生の緊張の様相」そのものであると考えられます。それは、葛藤や執念といった混沌とした要素であり、それらがさまざまな形式の芸術作品として顕現することで、はじめて、作成者である個人を超え、普遍的な力として他者に作用を及ぼすのではないでしょうか。その意味で、芸術作品もまた、ローヤルゼリーや朝鮮人参と同様、周囲のさまざまな摩擦を引き受けた時にこそ、その真の力を獲得し、発揮するのではないかと思われるのです。

 あるいは、この「快適ではなく、摩擦や緊張のある環境が力を凝縮させる」という考え方は、我が国の西日本の一部地域において見られた犬神信仰の背景とも、通底する要素を有しているのではないかとも考えさせられます。犬神信仰とは、牡犬を首だけ地上に出した状態で地中に埋め、何も与えず、極限の飢えという苛烈な緊張状態を人為的に作り出し、その呪力を最大化できると信じられていた呪術の様式です。これは、(犬の)生命を快適さから強制的に引き剥がし、限界にまで追い込むことで、超常的な霊力の獲得を試みるものであったと考えられます。

 また、こうした呪術は、大陸由来の「蠱毒」に見られるような、閉鎖空間における生存競争によって負のエネルギーを濃縮させる観念と、南方から黒潮に乗って伝来したとされる精霊信仰とが、我が国の文化風土の中で融合した結果である可能性も指摘されています。おそらく古人は、過酷な環境こそが真に「効く」力を生成させる、という、現代を生きる我々の感覚からすれば到底容認し得ない、残酷で峻厳な認識を、自然環境の観察を通じて身体感覚として持っており、そこから、先述の犬神信仰のような観念も伝えられていったのではないかと思われます。

 そしてまた、このような文脈において「伝統」とは、単に保存された情報の集積ではありません。それは、過去から現在、そして未来へと受け渡されていく「緊張の記憶」そのものであるのではないでしょうか。その意味で、伝統芸能や職人の技術が、厳しい規律や「型」という不自由さを要請するのは、そうした摩擦の生じる環境においてのみ、凝縮された力が生成されることを、経験的に知っていたからであるようにも思われます。

 最適化され、容易に獲得された知識は、往々にして早々と消費され、忘れ去られてしまいます。しかし、緊張を伴いながら継承された知識や知恵は、長く、深く、人の心に作用し続けるように思われますが、さて、実際のところは、どうなのでしょうか。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。

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2026年1月19日月曜日

20260119 東浩紀による新著『平和と愚かさ』を読んで思ったこと

東浩紀氏による新著「平和と愚かさ」で述べられる「平和」とは、昨今の不安定な世界情勢の中で多く論じられるような、正義の完遂や政治的安定といった観念的な地平を指すものではなく、むしろそれは、政治や戦争について考えを巡らせる必要性すらない、いわゆる「平和ボケ」の中に安住し得る状態を指していると云えます。

昨今の我が国において「平和ボケ」という言葉は、危機意識の欠如を意味する否定的な文脈で用いられることが多いと云えます。しかし東氏は、本著においてこの状態に積極的な価値を見出し、メタ的に「思考しなくても良い自由」という核心を突こうとしているように思われます。

また、本著のもう一つの鍵となる「愚かさ」も、単に知的能力の不足や欠如を意味すると云ったものではありません。ここで東氏が指摘しているのは、正義や平和をめぐる思考が明晰化され、論理の連環が強固になればなるほど、かえって対立は先鋭化し、戦争という「合理的解決」へと収束してしまうのではないかという、逆説的なジレンマです。

たとえば「戦争を止めるべきだ」という主張が正論であったとしても、それを論理的に徹底し、あらゆる反論を封殺しようとすれば、最終的には「敵を殲滅する以外に平和への道はない」といった極端な帰結を招きかねません。つまり、論理性とは往々にして、我々を逃げ場のない闘争へと追い込む、チキンレースのような側面を持っているのだと云えます。

それを踏まえますと、本著で説かれている「愚かさ」とは、こうした論理性の否応のない進展を意識的に抑制しようとする態度であり、事実と論理性のみで全てを判断しようとする現代的な知的態度に対して、敢えて「考えないで済む領域」の重要性を説いているのだと理解することが出来ます。

また、平和や正義を強く論理化しようとする行為態度は、現代社会における「効率性(コストパフォーマンス)」の追求とも不可分であると云えます。効率を最大化し、無駄を徹底的に削ぎ落とした先にあるのは、数値化はし得ないものの充実した生の営みや、曖昧な情緒性の排除です。そして戦争もまた、究極的には政治的なコスト計算の帰結として選択される「解決策」という側面を持っています。もし我々が、あらゆる事象を論理性と効率性のみで判断しようとするのであれば、どこかで「究極的な破壊」が合理的な選択肢となる危険性を否定することは出来ません。

こうした視座から、本著での東氏の見解は、その手前で踏み止まり、言語化し得ない日常の喜びを享受出来る「余白」を維持することの重要性に集約されていると云えます。それは、効率化一辺倒の現代文明に対する、極めて根源的な批判でもあります。

さらにこの見解は、社会における「無用の用」の再評価とも評し得ます。我々が常に政治や平和について考える必要がなく、むしろ、それらの思考から解放され「考えないで済む領域」が確保されていること自体が、その社会の平和の程度を測る一つの指標となるのです。

もっとも、東氏は「考えないで済む状態」を無条件に称揚しているわけではありません。為政者や考える必要性のある方々が思考を放棄してしまえば、社会の秩序は容易に崩壊します。その意味で、東氏の議論は単純な非武装論や、政治的無関心の免罪符とは一線を画しています。本著で述べられる「愚かさ」とは、単に思考を止めることではなく、思考そのものが孕む「暴力性」を自覚し、それを出来るだけ自然に抑制しようとする態度であると解釈するのが妥当でしょう。

加えて、本著の重要な洞察の一つは、「平和」と「反戦」の峻別にあります。東氏の定義によれば、「反戦」とは戦争に対抗する能動的な政治行為であり、そこには常に「敵」や「対立」の構造が伴います。これに対して「平和」とは、そもそも戦争という概念が意識の遡上にすら上らない、忘却された状態を指します。

ここから「平和は思考不可能であり、記述不可能である」という逆説が導かれます。「私たちは今、平和だ」と言語化した瞬間、その平和は他者との比較や訂正可能性に晒され、政治的議論の客体へと変質してしまいます。平和とは、幸福と同様、語ろうとした瞬間に手の中から零れ落ちていく性質のものなのです。

『平和と愚かさ』は、読者に対して明快な結論や指針を提示する種類の著作ではありません。紀行文を思わせる比較的柔らかなその文体は、読者に思考の速度を落とさせ、読んだ文章の内容を自らのペースで咀嚼・反芻する時間を与えてくれます。

スピードと効率性が求められ、SNS等で「レスバ」や「論破」の応酬が繰り広げられる、末世とも見える現代社会において、東氏の「読み手に委ねる」という態度そのものが、ある種の洗練された思想的実践であるようにも感じられました。

平和を声高に主張することにより、却って平和を壊してしまう我々自身の「思考の型」を自覚し、正義を掲げる熱によって、私たちはあまりにも多くの「日常にある余白」を焼き払ってきたのではないでしょうか?失われてしまった、そうした場所を示し、今なお過熱し続ける世界に水を差すことこそが、本著の持つ大きな価値であると思われました。

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2026年1月10日土曜日

20260110 興味関心が時間を掛けて文章化に至るまで

年末年始にかけて、ベートーヴェンの交響曲第九番、ならびにベネズエラでの事案を題材にブログ記事を作成しました。いずれも私の専門分野ではなく、その意味では門外漢による文章であると云えます。そのためか、普段の投稿記事に比べて、やや否定的な受け止め方も目についたように感じられました。しかし、実際、それが、どの程度であるのかは慎重に見なければならず、そこには私自身の受け取り方も含まれているのかもしれません…。

とはいえ、冒頭二つの題材は、決して思いつきで選んだものではありません。ベートーヴェンの第九については、以前からなぜか惹かれており、中学生の頃に初めて購入したクラシック音楽のCDもこの楽曲でした。その後も指揮者やオーケストラの異なる録音盤をいくつも聴き、また、本楽曲が印象的に多用されたスタンリー・キューブリック監督『時計仕掛けのオレンジ』も興味深く何度も視聴しました。さらに大学一年生の時には第九の合唱に参加する機会があり、身体を通じて、この楽曲に触れた経験もあります。そして、昨年12月28日に上野の東京文化会館で第九の演奏会に出席させて頂いた折、こうした記憶が改めて励起され、それが記事作成につながったのだと云えます。

また、新年1月3日のベネズエラでの事案についても、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻から、背景や文脈を理解するために国際関係論や近現代史の書籍を継続的に読んできました。そして、その中にはベネズエラの状況に触れるものもあり、強い関心を抱き続けてきたとまでは云えないにせよ、多少の前提知識は蓄積されており、そこで、今回の事案に際して思うところもあり、ブログ記事題材として取り上げたのだと云えます。

それでも、専門外の分野を題材として文章を公表する行為は、我が国ではしばしば「越権」あるいは「付け焼き刃」と見なされ、白眼視されることもあります。しかし「専門ではない」ということと「何の知見の蓄積もない」ということは、必ずしもイコールではありません。専門性は、職業的訓練や研究成果などによって可視化されますが、知的関心の持続や思考の蓄積は、肩書や業績として表面化しない場合も多々あります。また、専門家でないからこそ、特定の学派や内部での言語世界に拘束され過ぎず、事象を一定の距離をもって捉え直せることもおおいにあり得ます。もちろん、その際には断定を避け、問いとして提示するような慎重さが必要であるとは考えますが...。

しかし、そうした慎重さとは、沈黙を選ぶ理由にもなりません。文章を作成するという行為は、おそらく、他者に結論を押しつけるためではなく、自らの中で持続してきた興味関心あるいは疑問を整理し、言語化する作業でもあると考えます。そして、さきの両記事も、そうした試みとして作成したものと云えます。無論、読んでくださった方々すべてに受け入れられることを期待しているわけではありません。ただ、これらの文章が単なる思いつきではなく、ある程度の時間をかけて培われた興味関心の延長線上にあることは、出来ましたら、ご理解頂ければと思います。

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2026年1月5日月曜日

20260104 今回のベネズエラ情勢から想起された「バナナ共和国」について

今回一連のベネズエラ・ボリバル共和国(以下、ベネズエラ)をめぐる報道に接し、久しく意識することのなかった「バナナ共和国(banana republic)」という言葉を思い出しました。以前、 ユヴァル・ノア・ハラリ の著作でこの言葉を知り、その語感の面白さから調べたところ、それが単なる蔑称ではなく、特定の歴史的・政治的構造を的確に表現したものであることを知りました。また、この言葉を創案したのが、ジャーナリストでもあった短編の名手と称される米国の作家 オー・ヘンリー であったことにも、当時は少なからず驚かされました。

「バナナ共和国」とは、特定の一次産品の生産に国家経済が依存し、外国資本と結びついた買弁的支配層が国家の主要な意思決定を左右する体制を指します。こうした国家は形式上は独立国であっても、実質的な主権は国外勢力に握られていることが少なくありません。そしてこの言葉が、今年初頭のベネズエラをめぐる一連の報道を通じて、あらためて想起されたのです。

今回、米軍が首都カラカスで実施した「真夜中のハンマー作戦(Midnight Hammer operation)」は、現職国家元首の身柄拘束を目的とする典型的な斬首作戦でした。長期間にわたる情報収集、通信・電力・情報網への事前侵入と遮断準備、さらには現地勢力への黙認工作などにより、ベネズエラ側に本格的な反撃の機会は与えられず、作戦は短時間で実行され、当初の目的は達成されました。

この成功は、2022年以来続く第二次露宇戦争におけるロシア軍の初動と対照的です。ロシア軍も当初、首都急襲による政権中枢の無力化、すなわち斬首作戦を志向しましたが、首脳の身柄拘束には至らず、ウクライナ軍の頑強な抵抗に直面して失敗し、戦争は長期化しました。

一方、今回のベネズエラでの米国による斬首作戦は成功したため、大規模な戦争は回避されました。その成否を分けたのは兵器の性能ではなく、作戦設計です。米国は目的を「政権転覆」ではなく「元首の身柄確保」に限定し、占領や統治を前提とせずに軍事行動を完結させました。さらに、その後の処理を国内の刑事司法手続に接続することで、軍事行動を「法執行」として再定義しました。

しかし同時に、この成功は国家主権という国際秩序の根幹を揺るがすものでもあります。他国の元首を軍事力によって拘束し、自国の司法制度に組み込む行為は、主権が事実上、力によって書き換えられたことを意味します。加えて、資源管理を含む暫定的な統治関与が示唆されたことで、ベネズエラは再び外国勢力の管理下に置かれる構図へと近づいたと云えるでしょう。

ここで「バナナ共和国」という言葉は、単なる歴史用語ではなく、現在の情勢を理解するための分析枠組みとして立ち上がってきます。独裁的元首の排除と秩序回復が掲げられる一方で、国家の富と意思決定が外国の管理下に置かれるのであれば、それは名称の如何を問わず、従属構造にほかなりません。

この事態を最も深刻に受け止めているのが、カリブ海地域の反米的国家、とりわけキューバです。長年ベネズエラ産石油に依存してきたキューバにとって、その供給源が米国の管理下に入ることは、経済問題にとどまらず体制存続に直結します。ベネズエラで起きたことが前例となれば、次は自国ではないかという警戒感が強まるのは自然な流れです。

他のカリブ海諸国や中南米左派政権もまた、表立った対抗を控えつつ、外交姿勢の再調整や域外大国との関係改善を通じ、間接的な牽制に動く可能性があります。中南米諸国は、かつてのモンロー主義を想起させる米国の行動を前に、静かな緊張状態に入りつつあると考えられます。

独裁体制の崩壊がベネズエラ国民に一定の希望をもたらす可能性は否定できません。しかし、その過程で国家主権が大きく損なわれたこともまた事実です。斬首作戦という戦術的成功の先に、いかなる戦略のもとで政治体制と秩序が再構築されるのか。この一連の報道を通じて「バナナ共和国」という言葉が想起されたのは、その問いが再び現実のものとなったからにほかなりません。

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2026年1月3日土曜日

20260103 2026年初投稿記事:最近の読書から思ったこと

新年を迎え、すでに3日間が経過しましたが、当ブログの方は、昨年12月29日分の投稿から更新はしていません。しかしながら、この間の年末年始の期間を振返りますと、この期間に、新たに入手したものや積読状態であった書籍を比較的落ち着いて読み進めることが出来ました。とりわけ、12月24日に届いた東浩紀による「平和と愚かさ」は、500頁近い文量ではありますが、読み始めてみますと、著者の文体に乗せられるのか、比較的スムーズに読み進むことが出来、現在、300頁ほどまでに至りました。本著作は、戦争や国際政治などを正面から論じるというよりも、著者が訪問した世界各地の風景や施設から、それぞれの歴史や文化について論じ、そこから平和について論を立てる、いわば、紀行文的な体裁の思想文であり、平易とは云い得ませんが、比較的読み易い文章であると云えます。また、そのなかの「我々が政治について語りすぎていること自体が、かえって平和から遠ざかっているのではないか?」という問題提起は、我々に即断を促すものではなく、むしろ、それ以前にある、いわばメタな考えを、より地に足の着いたものへと導くことを企図したものであるように思われました。

また、もう一つの読み進めている著作である伊藤之雄著、中公新書の「元老」は、現在の我が国の状況と、どこか通底するものがあるのではないかと思いつつ読み進めています。当著作は、明治維新から昭和初期にかけての我が国の政治を題材としていますが、そこで改めて意識させられるのは、戦前の我が国における元老という存在が、制度として明文化されていなかったにもかかわらず、実質的には政治の均衡を支える重要な役割を果たしていたと云う点です。元老は、大日本帝国憲法に規定された制度ではなく、特に法的な権限を持つ存在でもありませんでした。それでも首相奏薦を通じて、政党政治と天皇制、さらには軍部とのあいだに介在する、非公式な調停装置として機能していた側面があったことは否定出来ません。

繰り返し、元老は、戦前の大日本帝国憲法に規定された公的制度ではなく、その権能や資格、待遇が明文化された存在でもありませんでした。にもかかわらず、天皇の輔弼という立場から、内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の重要事項に参画し、事実上、政権形成に大きな影響力を持っており、実際、天皇は元老が奏上した首相候補を拒否した例はなく、大命降下は実質的に元老の判断に基づいていたと理解されています。

とはいえ、元老は常に一体として行動していたわけではなく、その政治的な働き掛けは、元老各個人の判断と人脈に依存する側面が強かったことも指摘されています。つまり、元老は内閣の安定を支えようとする一方で、場合によっては倒閣に動いた例もあり、元老の影響力は必ずしも一方向的なものではありませんでした。にもかかわらず、軍、政党、官僚、そして天皇制とのあいだに介在し、直接的な衝突を和らげる「非公式な調停装置」として機能していました。

最後の元老であった 西園寺公望 は、昭和15(1940)年に亡くなっていますが、その時まで元老や元老制度が十分な影響力を保持していたわけではありません。既に1930年代後半には、元老の政治的影響力は著しく低下していました。それでもなお、最後の元老、西園寺の死により、明治維新以来からの政治的慣行が名実ともに終焉したことが、太平洋戦争開戦に至る遠因の一つであったとする指摘もあります。

軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、昭和恐慌からの政党政治への不信、国際情勢の緊張化など、戦前の我が国が軍国化への傾斜を強めるには、複数の要因が重なっています。しかし、それらの過程のなかで、軍や政治の暴走を非公式にではあれ、抑制し得る機能を持つ存在が失われてしまったことは、結果として、その後の軍国化への歯止めを弱めたと云えるでしょう。

また、戦前の国民が「元老ではなく軍部を信頼した」と単純に判断することにも注意が必要です。当時、元老とは国民にとって可視的な存在ではなく、また、可視的な存在による政党政治の方は汚職、不祥事や分裂などで国民からの信頼を失っていました。その結果、消去法の様に、軍が秩序や強さを体現する存在として国民に認識され、支持を集めるといった構図が形成されたのであり、それはいわば、国民が積極的に軍部を選択したというよりも、他に信頼できる政治の担い手を見つけることが出来なかったというのが、実態に近いと思われます。

そして、こうした構図とは、決して過去にのみ当てはまるものではありません。現代の我が国社会においても、ネット環境の向上、SNSの普及などにより、情報の流通速度は飛躍的に高まりましたが、その一方で、既存メディアや政治への不信は、むしろ強まりつつあるように見受けられます。そして、その背景の一部には、面倒な調整や専門的知見に基づく判断よりも、分かり易く、強い断定調の言葉の方が支持を集め易いといった時代を通じて共通する我が国の事情や構造といったものがあるのではないかとも思われるのです。

もちろん、現代の我が国には、文民統制や憲法秩序、民主的官僚制といった、1945年の敗戦による民主化以降に培った制度的基盤があり、戦前の社会と同じに考えることは出来ません。しかし一方で、混乱する政治を調停して、一極への力の集中を抑制する装置が弱体化、衰滅すると、我が国の社会(民意)は「分かり易い勢力」の方へと傾斜する傾向があったと云うことは、我が国近現代史が示す一つの教訓と受け止めて良いのではないかと考えます。

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