2021年5月7日金曜日

20210506 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳 「ホモ・デウス」下巻 pp.142-146より抜粋

 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳

「ホモ・デウス」下巻 pp.142-146より抜粋

ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375

医師でさえアルゴリズムの恰好の標的になっている。ほとんどの医師にとって、第一の、そして主要な仕事は、病気を正しく診断し、それから実行可能な治療法のうちで最善のものを推薦することだ。私が医療機関を訪れて、発熱と下痢という症状を訴えたら、私は食中毒を起こしていると診断されるかもしれない。だがその症状は、ウィルス性胃炎やコレラ、赤痢、マラリア、癌あるいは未知の新しい病気が原因である可能性もある。私のかかりつけの医師は、ほんの数分で正しい診断を下さなければならない。

 私の医療保険は、それぐらいの時間の分しか保険金を支払わないからだ。そのため、医師はいくつか質問して、場合によっては手早く診察するのがせいぜいだ。それからこの乏しい情報や病歴や、人間の病気の広大な世界と照らし合わせる。悲しいかな、どれほど勤勉な医師でも、これまで私がかかった病気や、受けた健康診断の結果すべてを覚えてはいない。同様に、病気や薬を一つ残らず熟知している医師や、ありとあらゆる医学専門誌に発表されたありとあらゆる新論文を読んでいる医師もいない。そのうえ、医師もときには疲れていたり、お腹が減っていたりするし、ひょっとしたら病気のことさえあるから、それが判断力に響く、医師がときおり診断を誤ったり、最適とは言えない治療法を推薦したりするのも無理はない。

 今度はIBMの有名なワトソンのことを考えてほしい。二〇一一年に過去のチャンピオン二人を破ってテレビのクイズ番組「ジャパディ!」で優勝したAIシステムだ。ワトソンは現在、もっとも重要な仕事、とくに病気の診断をするために準備を重ねている。ワトソンのようなAIには、人間の医師をはるかに凌ぐ潜在能力がある。第一に、AIには自分のデータバンクに、歴史上知られているすべての病気と薬についての情報を保存しておける。そうしておいて、新しい研究の成果だけでなく、接続している世界中のありとあらゆるクリニックや病院から集めた医学的統計を組み込み、このデータバンクを毎日アップデートできる。

 第二に、ワトソンは私のゲノム全体と日々の健康状態や病歴を詳しく知っているだけでなく、私の親や兄弟姉妹、親戚、隣人、友人のゲノムと健康状態や病歴も知り尽くしている。ワトソンは私が最近、熱帯の国を訪れたかどうかや、再発性のウィルス性胃炎にかかっているかどうか、身内に大腸や小腸の癌になった人がいるかどうか、町中の人が今朝、下痢の症状を訴えているかどうかを瞬時に知る。

 第三に、ワトソンはけっして疲れたり。お腹を空かせたり、病気になったりしないし、私のためにいくらでも時間を使える。私は自宅で自分のソファに心地良く座り、ワトソンを相手に、何百という質問に答え、自分がどんな具合なのか詳しく語ることができる。これはほとんどの患者(自分の健康状態を気にし過ぎる人は例外かもしれない)にとって、ありがたい話だ。だが、もしあなたが今日、二〇年後も家庭医の仕事があることを期待してメディカルスクールに入ろうとしているのなら、考え直したほうがいいかもしれない。ワトソンのようなAIが普及すれば、シャーロック・ホームズのような鋭い観察眼を持った人でさえ、あまり必要とされないだろうから。

 この脅威にさらされているのは一般開業医だけではなく、専門医も同様だ。それどころか、癌診断のように比較的狭い領域を専門にしている医師のほうが、Aiに取って代わられやすいかもしれない。最近のある実験では、コンピュータアルゴリズムが、示された肺癌の症例のうち九割を正しく判断したのに対して、人間の医師の成功率は五割にすぎなかった。実際、未来はすでに到来している。CTスキャンや乳房X線撮影(マンモグラフィ)の結果は専門アルゴリズムが日常的に調べており、医師にセカンドオピニオンを提供し、ときには医師が見落とした腫瘍を発見する。

 ワトソンやその同類は技術的な難問をもあだ多く抱えているので、明日の朝になったらほとんどの医師に取って代わっているという状況にあなりそうにない。とはいえ、そうした技術的問題は、どれほそ難しいものであっても、一度解決するだけで済む。人間の医師を育てるのは、何年もの月日と多額の費用がかかる複雑な過程だ。しかも、一〇年ほどの学習と研修を経てその過程が完了したときの成果は、たった一人の医師にすぎない。もし医師がもう一人必要なら、同じ過程をすべて最初から繰り返さなければならない。それに対して、ワトソンの導入を妨げている技術的な問題が解決できた暁には、一人ではなく数限りない医師が、世界各地で一年三六五日、二四時間体制で患者に対応できる。だからワトソンをうまく機能させるためにたとえ一〇〇〇億ドルかかるとしても、長い目で見れば、人間の医師を養成するよりもはるかに安上がりだろう。

 もちろん、人間の医師が全員消えてしまうわけではない。ありふれた診断よりも高いレベルの創造性を必要とする仕事は、当分は人間の手に委ねられたままになるだろう。二一世紀の軍隊が精鋭の特殊部隊を増強しているのとちょうど同じで、未来の医療サービスでは、アメリカ陸軍のアーミー・レンジャーや海軍のシールズに相当する医療チームのために、新たな職が多く生まれるかもしれない。とはいえ、軍隊が何百万もの兵士をもう必要としないのと同様、未来の医療サービスも何百万もの一般開業医は必要としない。

 医師に当てはまることは、薬剤師にはなおさらよく当てはまる。二〇一一年、ロボットがたった一台で応対する調剤薬局がサンフランシスコで開業した。人間がその薬局にやって来ると、数秒のうちにロボットが処方箋を全部受け取るとともに、その人が服用している他の薬や、抱えているかもしれないアレルギーについての詳しい情報も入手する。ロボットは、服用中の他のどの薬との組み合わせでも新しい薬が悪い影響を及ぼすことなく、アレルギーも引き起こさないことをたしかめた上で、必要な薬を調合する。開業から一年で、このロボット薬剤師は処方箋に従って二〇〇万回の調剤を行ったが、一度としてミスは犯さなかった。生身の人間の薬剤師は平均するとすべての調剤のうち一・七パーセントで間違える。これはアメリカだけでも、なんと毎年五〇〇〇万回の調剤ミスに相当する。

 たとえアルゴリズムが仕事の技術的な面で医師や薬剤師よりも優るとしても、人間味あふれた対応までは提供できないと主張する人もいる。もしCTスキャンであなたが癌であることが判明したら、あなたはその結果を思いやりのかけらもない機械から聞きたいか、それとも、あなたの情動の状態にも気を配ってくれる人間の医師から聞きたいか?では、注意深くて、あなたの気持ちや性格タイプに合うように言葉を選ぶ機械にその結果を知らされるというのはどうだろう?思い出してほしい、生き物にはアルゴリズムであり、ワトソンはあなたの腫瘍を見つけるのと同じ精度であなたの情動も検知できるのだ。