pp.190-192より抜粋
ISBN-10 : 4865281029ISBN-13 : 978-4865281026
小作小説「神聖喜劇」の中で、私は、日本軍隊について(延いては日本国家一般について)、「累々たる無責任な体系、膨大な責任不在の機構」というようなことを書いた。また、小作エッセイ「俗情との結託」の中で、私は、日本軍隊について、「その真意においては、決して「特殊の境涯」でも「別世界」でもなく、最も濃密かつ圧縮的に日本の半封建的絶対主義性・帝国主義反動性を実現せる典型的な国家の部分であって、しかも爾余の社会と密接な内面的連関性を持てる「地帯」であった。」と書いた。すなわち、それは、「日本軍隊が、掛けても「真空地帯」などではなく、日本の国家および社会の圧縮典型である。」という意味である。「俗情との結託」なり「神聖喜劇」なりの「新日本文学」誌上発表時、私は全然知らなかったが、丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」(岩波書店1946年「世界」所収)の中に、やはり日本軍隊に関する「累々たる無責任の体型、膨大な責任不存在の機構」を読んでいなかったこと、その類の言表の存在を知らなかったことを、言語表現公表者として、たいそう不行き届きにかえりみ思った。日本国家一般を「累々たつ無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」と把握することは、君主制否定ならびに共和制樹立の具現を切望することにほかならぬ。戦後の一時期、この「切望」は適えられるかにみえた。しかし、それは、事実として適えられなかった。それどころか、なかんずくここ数年来、日本国家一般は、戦争前・戦争中なみの「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」に堕しつつある。
ところで、原水爆開発後の今日、人類の存続的・繁栄的な未来は、「国家の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使と」を「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことの上にしかあり得ない。日本国家・社会が戦争前・戦争中なみの「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」に堕することは、人類の滅亡的・衰退的な成り行きを用意することになる。いま言われている「グローバリゼーション」のいかがわしい正体は、これであり、先述「切望」の成就こそが、真正の「グローバリゼーション」なのである。
「丸山眞男 自由について/七つの問答(聞き手、鶴見俊輔/北沢恒彦/塩沢由典)」は、昨年(2005年)7月、編集グループSUREから刊行せられた。その中で、丸山眞男は、「セクトなんかだって、二つしか言葉を知らない。「異議なし」と「ナンセンス」ですよ。悲しいかな、これもやっぱり満場一致制です。「異議なし」のはずないんですよ。ほんとうなら、人間が集まれば異議があるほうが当り前でしょ。だから、ぼくは日本の無責任体制ってのを自分が論じたもの(「超国家主義の論理と心理」)について、あらためて近ごろ、自己批判してるの。あそこでは、これを戦争中の病理現象と見たけれども、実際はそうじゃなくて、もっと根が深い。」と語っている。
決して「真空地帯」ではない日本軍隊の日常生活現実(「知りません」禁止。「忘れました」強制)から演繹した私の「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」は、むろん毛ほども「これを戦争中の病理現象」と見立ててはいなかった。そこに、丸山眞男と私との異同が、実存する。
いずれにせよ、日本国家一般に関する「君主制否定ならびに共和政樹立の切望」は、依然として日本平民の絶大な課題・当為である。