pp.10‐12より抜粋
ISBN-10 : 4480031480
ISBN-13 : 978-4480031488
ザルツブルクにくるまえに、ザルツブルクを知っている。よく知られた商標にも似ていて、つまり、これは「モーツァルトの町」である。「小さなローマ」とも「アルプスの北のフィレンツェ」とも言われてきた。近年は「音楽祭の街」として有名である。どれもまちがってなどいない。たしかにモーツァルトはザルツブルグで生まれたし、またこの町はしばしば、七つの丘をもつ永遠の都のポケット版にたとえられてきた。ゆるやかな川沿いのオーストリアの古都がアルノ川のほとりのフィレンツェに似ているのも事実である。そして夏のザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパに数ある音楽祭のなかでもとびきりのものである。
もう一度、右の商標を見直してみよう。どれ一つとして、さほど正確でもなさそうだ。というのはザルツブルグはモーツァルトを生んだかもしれないが、この町はたえずあの天災に邪険だった。ありとあらゆる手をつくして生れ故郷から追い出したふしさえある。またザルツブルクがローマを思わせるのは聖堂(ドーム)を衷心にした一郭にかぎられ、山にそびえる城砦や中世期風の町のたたずまいは、永遠の都ともアルノ川のほとりの百塔の街とも、あきらかにちがっている。それに「音楽祭の街」であるが、この商標は観光業者にとってはうれしいものかもしれないが、音楽好きにとっては必ずしもそうではない。 切符を手に入れホテルを確保するためだけに、精力の大半を使いはたさなくてはならないー。
ともかくも町に着く。駅周辺の雑駁なあたりは足早に突っきって、旧市街にくると、とたんに自然と歩調がゆるむ。何をおいてもカフェ・トマゼリというわけだ。珈琲の歴史と同じほど古いカフェである。まずは腰を落ちつける。十九世紀の博物学者アレクサンダー・フンボルトはザルツブルクを「世界でもっとも美しい三つの町」の一つに数えた。あとの二つはコンスタンティノープルとナポリである。フンボルトは世に知られた大旅行家であった。単なる思いつきで言ったわけではあるまい。とするとイスラムの大都や「ナポリを見て死ね」の名句にもなった麗しのナポリと並べて、ケシつぶほどに小さい山あいの町をあげたのには、それ相応の理由あってのことにちがいない。
たしかに歴史の点からいえば、さほど遜色はなさそうだ。遠い昔、ここにはケルト族が住んでいた。紀元前十四世紀ごろのこと。そのあと、まだドイツもオーストリアも存在しなかったころであるが、ローマ人がやってきた。古代ローマ人にとってアルプスの北はすべて荒寥とした蛮地だった。ところが、その蛮地にやってきたにしては、彼らはこの辺境の谷に思いのほか楽しい住処を見つけたらしい。というのは百年あまり前、モーツァルトの記念像を建てるために広場を掘っていたら、古代ローマ時代の石があらわれた。そこには、稚拙な飾り書体のラテン文字で「ココニ幸アリキ」といった意味の言葉が刻まれていた。
しかし、まあ、半ば伝説じみた大昔までさかのぼるのはやめにしよう。ケルト人はザルツブルク地方のあちこちの地名の由来になごりをとどめているにすぎないし、また古代ローマ人は深い地の底と博物館のガラス・ケースの中で永遠の眠りについている。
ともあれ掘り出された石の一つだが、一九二〇年代のはじめ、聖堂修復の際に床を掘り返していたら、八世紀の半ばごろに聖ヴェルギリウスが建てた最古の礼拝堂の礎石が見つかった。そのころすでにザルツブルク一帯にキリスト教が根づいてたあかしである。とともに、それはあらためて、ザルツブルクを治める者が領主でも国王でもなかったことを、それとなく告げている。歴史の伝えるとおりであって、ながらくザルツブルクは独立した教会国家として、聖職者を支配者にいただいてきた。この町の王侯は、燃えるような緋の衣をなびかせ、瘤のある司教杖をもった大僧正だった。
ISBN-13 : 978-4480031488
ザルツブルクにくるまえに、ザルツブルクを知っている。よく知られた商標にも似ていて、つまり、これは「モーツァルトの町」である。「小さなローマ」とも「アルプスの北のフィレンツェ」とも言われてきた。近年は「音楽祭の街」として有名である。どれもまちがってなどいない。たしかにモーツァルトはザルツブルグで生まれたし、またこの町はしばしば、七つの丘をもつ永遠の都のポケット版にたとえられてきた。ゆるやかな川沿いのオーストリアの古都がアルノ川のほとりのフィレンツェに似ているのも事実である。そして夏のザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパに数ある音楽祭のなかでもとびきりのものである。
もう一度、右の商標を見直してみよう。どれ一つとして、さほど正確でもなさそうだ。というのはザルツブルグはモーツァルトを生んだかもしれないが、この町はたえずあの天災に邪険だった。ありとあらゆる手をつくして生れ故郷から追い出したふしさえある。またザルツブルクがローマを思わせるのは聖堂(ドーム)を衷心にした一郭にかぎられ、山にそびえる城砦や中世期風の町のたたずまいは、永遠の都ともアルノ川のほとりの百塔の街とも、あきらかにちがっている。それに「音楽祭の街」であるが、この商標は観光業者にとってはうれしいものかもしれないが、音楽好きにとっては必ずしもそうではない。 切符を手に入れホテルを確保するためだけに、精力の大半を使いはたさなくてはならないー。
ともかくも町に着く。駅周辺の雑駁なあたりは足早に突っきって、旧市街にくると、とたんに自然と歩調がゆるむ。何をおいてもカフェ・トマゼリというわけだ。珈琲の歴史と同じほど古いカフェである。まずは腰を落ちつける。十九世紀の博物学者アレクサンダー・フンボルトはザルツブルクを「世界でもっとも美しい三つの町」の一つに数えた。あとの二つはコンスタンティノープルとナポリである。フンボルトは世に知られた大旅行家であった。単なる思いつきで言ったわけではあるまい。とするとイスラムの大都や「ナポリを見て死ね」の名句にもなった麗しのナポリと並べて、ケシつぶほどに小さい山あいの町をあげたのには、それ相応の理由あってのことにちがいない。
たしかに歴史の点からいえば、さほど遜色はなさそうだ。遠い昔、ここにはケルト族が住んでいた。紀元前十四世紀ごろのこと。そのあと、まだドイツもオーストリアも存在しなかったころであるが、ローマ人がやってきた。古代ローマ人にとってアルプスの北はすべて荒寥とした蛮地だった。ところが、その蛮地にやってきたにしては、彼らはこの辺境の谷に思いのほか楽しい住処を見つけたらしい。というのは百年あまり前、モーツァルトの記念像を建てるために広場を掘っていたら、古代ローマ時代の石があらわれた。そこには、稚拙な飾り書体のラテン文字で「ココニ幸アリキ」といった意味の言葉が刻まれていた。
しかし、まあ、半ば伝説じみた大昔までさかのぼるのはやめにしよう。ケルト人はザルツブルク地方のあちこちの地名の由来になごりをとどめているにすぎないし、また古代ローマ人は深い地の底と博物館のガラス・ケースの中で永遠の眠りについている。
ともあれ掘り出された石の一つだが、一九二〇年代のはじめ、聖堂修復の際に床を掘り返していたら、八世紀の半ばごろに聖ヴェルギリウスが建てた最古の礼拝堂の礎石が見つかった。そのころすでにザルツブルク一帯にキリスト教が根づいてたあかしである。とともに、それはあらためて、ザルツブルクを治める者が領主でも国王でもなかったことを、それとなく告げている。歴史の伝えるとおりであって、ながらくザルツブルクは独立した教会国家として、聖職者を支配者にいただいてきた。この町の王侯は、燃えるような緋の衣をなびかせ、瘤のある司教杖をもった大僧正だった。