2024年7月16日火曜日

20240717 株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」 pp.10‐12より抜粋

株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」
pp.10‐12より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480031480
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480031488

ザルツブルクにくるまえに、ザルツブルクを知っている。よく知られた商標にも似ていて、つまり、これは「モーツァルトの町」である。「小さなローマ」とも「アルプスの北のフィレンツェ」とも言われてきた。近年は「音楽祭の街」として有名である。どれもまちがってなどいない。たしかにモーツァルトはザルツブルグで生まれたし、またこの町はしばしば、七つの丘をもつ永遠の都のポケット版にたとえられてきた。ゆるやかな川沿いのオーストリアの古都がアルノ川のほとりのフィレンツェに似ているのも事実である。そして夏のザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパに数ある音楽祭のなかでもとびきりのものである。

 もう一度、右の商標を見直してみよう。どれ一つとして、さほど正確でもなさそうだ。というのはザルツブルグはモーツァルトを生んだかもしれないが、この町はたえずあの天災に邪険だった。ありとあらゆる手をつくして生れ故郷から追い出したふしさえある。またザルツブルクがローマを思わせるのは聖堂(ドーム)を衷心にした一郭にかぎられ、山にそびえる城砦や中世期風の町のたたずまいは、永遠の都ともアルノ川のほとりの百塔の街とも、あきらかにちがっている。それに「音楽祭の街」であるが、この商標は観光業者にとってはうれしいものかもしれないが、音楽好きにとっては必ずしもそうではない。 切符を手に入れホテルを確保するためだけに、精力の大半を使いはたさなくてはならないー。

 ともかくも町に着く。駅周辺の雑駁なあたりは足早に突っきって、旧市街にくると、とたんに自然と歩調がゆるむ。何をおいてもカフェ・トマゼリというわけだ。珈琲の歴史と同じほど古いカフェである。まずは腰を落ちつける。十九世紀の博物学者アレクサンダー・フンボルトはザルツブルクを「世界でもっとも美しい三つの町」の一つに数えた。あとの二つはコンスタンティノープルとナポリである。フンボルトは世に知られた大旅行家であった。単なる思いつきで言ったわけではあるまい。とするとイスラムの大都や「ナポリを見て死ね」の名句にもなった麗しのナポリと並べて、ケシつぶほどに小さい山あいの町をあげたのには、それ相応の理由あってのことにちがいない。

 たしかに歴史の点からいえば、さほど遜色はなさそうだ。遠い昔、ここにはケルト族が住んでいた。紀元前十四世紀ごろのこと。そのあと、まだドイツもオーストリアも存在しなかったころであるが、ローマ人がやってきた。古代ローマ人にとってアルプスの北はすべて荒寥とした蛮地だった。ところが、その蛮地にやってきたにしては、彼らはこの辺境の谷に思いのほか楽しい住処を見つけたらしい。というのは百年あまり前、モーツァルトの記念像を建てるために広場を掘っていたら、古代ローマ時代の石があらわれた。そこには、稚拙な飾り書体のラテン文字で「ココニ幸アリキ」といった意味の言葉が刻まれていた。

 しかし、まあ、半ば伝説じみた大昔までさかのぼるのはやめにしよう。ケルト人はザルツブルク地方のあちこちの地名の由来になごりをとどめているにすぎないし、また古代ローマ人は深い地の底と博物館のガラス・ケースの中で永遠の眠りについている。

 ともあれ掘り出された石の一つだが、一九二〇年代のはじめ、聖堂修復の際に床を掘り返していたら、八世紀の半ばごろに聖ヴェルギリウスが建てた最古の礼拝堂の礎石が見つかった。そのころすでにザルツブルク一帯にキリスト教が根づいてたあかしである。とともに、それはあらためて、ザルツブルクを治める者が領主でも国王でもなかったことを、それとなく告げている。歴史の伝えるとおりであって、ながらくザルツブルクは独立した教会国家として、聖職者を支配者にいただいてきた。この町の王侯は、燃えるような緋の衣をなびかせ、瘤のある司教杖をもった大僧正だった。

20240716 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」 pp.68‐70より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」
pp.68‐70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188544
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188542

 ーキーウにお住まいのエヴヘン・マイダンスキーさんとカテリーナ・マイダンスカさんご夫妻にお話をうかがいます。エヴヘンさんには昔チェルノブイリ・ツアーの運営でもお世話になりました。まずは侵攻が始まったときのことを聞かせてください。おふたりとも自宅にいたのですよね。

カテリーナ(以下、カーチャ)たまたま緊急の仕事が入って、わたしは二四日の午前二時くらいまで仕事をしていました。寝る直前にゼレンスキーがSNSにウクライナ語ではなくロシア語で「やめろ」と投稿しているのを目にしたのですが、疲れていたし、寝たかった。そうしたら、朝五時に母から電話がかかってきて、「戦争が始まった」と伝えられたんです。「戦争ってなに、寝かせてよ!」と返事したのをおぼえています。でも、すぐに飛び起きて・・・どうすればいいのかわかりませんでした。そのときわかっていたのは、ただ、ロシア軍が攻めてきたということだけでした。

 その後、朝の七時か八時だと思うのですが、ジェーニャ(エヴヘン)に非常事態に備えて荷造りを始めるように頼んで、わたしは食料品や薬を買い出しに行きました。わたしたちはバービン・ヤルの近くに住んでいて、家のすぐそばに薬局があります。通りにはひとが溢れていて、薬局にもすごい行列ができていました。でも、だれひとり話をしません。みんなショックを受けていたんです。そのときはじめて。上空を戦闘機が飛んでいく音が聞こえました。その後、キャットフードを買うためにもう一軒の薬局に行ったのですが、そこにも長い行列ができていた。ずっと並んでいました。それで・・・。正直に言うと、侵攻直後のことは、霧のなかにいるみたいであまり思い出せないんです。

エヴヘン(以下、ジェーニャ)ぼくは家に残り、ソファーを移動させてバリケードをつくりました。窓を閉めて、ドアに鍵をかけて、だれも入れず、猫も逃げ出せないようにしていたんです。ただ、二四日と二五日のことは、恐ろしい夢を見ているみたいで。ぼくもあまりおぼえていません。

カーチャ いまは警報アプリがありますが、当時はまだなくて、最初はニュースが手に入りませんでした。そこで、昔イラクを取材していた戦争ジャーナリストがいたことを思い出して、テレグラムで検索してみたんです。すると、彼は「午前四時頃にキーウに空襲警報が出た」と投稿していました。ジェーニャに伝えて猫を連れて地下鉄の駅に避難しました。駅にはたくさんのひとや動物がいて、だれもが泣きそうになっていた。

ジェーニャ 夜は自宅にかえりましたが、砲撃を避けるために廊下で寝ました。疲れ切っていて、いちど寝たらもう起きれなくなりそうだったので、最初はふたりで交代しながら寝ていました。でも結局、ふたりとも眠ってしまって。

ーその後、キーウから避難したのですか。

カーチャ 二六日にいちど、わたしだけ母の様子を見に行こうとしたんです。母もキーウに住んでいて、わたしたちの家から地下鉄で一本です。そのとき、まだ地下鉄は動いていました。駅はひとで溢れていて、運賃も必要ないと言われた。でも、「あと一五分で動かなくなる」とアナウンスがあって。それで母のところへいくのはあきらめて、歩いて自宅に戻りました。ジャーニャは駅まで迎えにきてくれました。すでに街には機関銃を携えた兵士がたくさんいて、ウクライナ軍の戦車がたくさん走っていました。戦車が道を通り過ぎるのを待っていたとき、「ああ、戦争がはじまったんだ」とようやく実感したのをおぼえています。

ジェーニャ それでぼくたちはその日のうちにキーウを離れました。ビラ・ツェルクバに住んでいるぼくの両親のもとに向かったんです。キーウから南に八〇キロくらいの距離にある街です。五月半ばまで、ぼくたちは両親の家に避難していました。

 ビラ・ツェルクヴァにいた頃は、しょっちゅう猫を抱いて浴室に隠れていました。防空壕に行く時間がないときは壁が二枚以上あるところで過ごすルールになっているんです。壁が二枚あれば、もし砲弾が一枚目を突き破っても、二枚目が守ってくれますからね。同じ理由で、キーウに戻ってきてからは、ずっと廊下にマットを敷いて寝ていました。

ー避難しているあいだ、仕事はどうしていたのですか。

ジェーニャ ぼくは燃料関係の多国籍企業で働いていて、コロナ禍以来、リモートワークだったんです。ここ四年間でオフィスに足を運んだのは一〇回くらいじゃないかな。だから避難しているあいだもリモートで仕事をしていました。こういうときは多国籍企業のありがたさを感じますね。資金力があるので従業員をサポートしてくれます。

カーチャ わたしは外資系ですが、仕事が再開したのは三月の一〇日すぎでした。日常が戻ってきたのは嬉しかったです。仕事のない時期も会社から手当が支給されてはいましたが、正規の給与に戻るのはやはりありがたかった。ウクライナの企業では、侵攻のせいで従業員が解雇されてしまうことも少なくありませんでした。二四日にすべてが止まってしまいましたからね。たとえばわたしの母の会社も最初は仕事がなくなったのですが、幸運なことにすぐに職場に復帰することができました。でも、職を失ってしまった知人もいます。

 仕事をしているときは、戦争のことを考えなくなるので気が晴れるんです。戦争が始まった頃から、オーストリアの心理学者フランクルが強制収容所での経験を書いた「夜と霧」があちこちで引用されています。いわく。最初に心が折れたのは戦争がすぐに終わると思っていたひとだった。二番目に心が折れたのは、いつか戦争が終わると思っていたひとだった。生き残ったのは、戦争という枠にとらわれずに、ただ毎日を生きたひとだった。その言葉が大いに心の助けとなっています。