2023年2月19日日曜日

20230218 「認識の型の精度」と専門家による知見の価値?

昨日までの数日間の首都圏はとても寒く、春が近づいていることを忘れさせるほどでした。しかし本日は打って変わり、日中、比較的気温も上がり過ごし易かったです。そして、これからが三寒四温に入り、気温もまた上下する期間がしばらく続くのでしょうが、私としては、速やかに暖かい春になってくれることを願うばかりです・・。他方で、当ブログの方は、今回の記事投稿により(ようやく)総投稿記事数が1955に到達します。また、この投稿頻度を継続すれば、あるいは4月中での2000記事到達も叶うのではないかと思われますが、とりあえずは、そのあたりの4・5月の間に到達出来ることを念頭に置いて、今しばらく続けてみようと思います。

そういえば、去る2月15日投稿分の引用記事は、比較的多くの方々に読んで頂けました。このような、どちらかというと「郷土史」に分類されるような著作も、読んでみますと当事者の記憶に基づいた記述であることから、期せずして真に迫るような描写が少なからずあり、そしてまた、そこから当時の時代精神なども読み取ることが出来るのだと思われます。おそらく、多くの優れた時代小説家の先生方も、こうした歴史的出来事の当事者が遺した文章や記録などを読み込んで、それらの内容を統合して、さらに現代の文章として洗練させたものとして書かれるのでしょうが、たしかに、こうした知的作業は大変そうではありますが、同時に、思いのほかに大事であると考えます。

そしてまた、こうした資料やコンテクストを読解して得られたものを統合して、それを抽象化した、ある種の「認識の型」は、その過程を何度も繰り返すことにより、さらに「認識の型」としての精度が上がり、現実世界での出来事にも応用可能になっていくのではないかと考えます。

おそらく一般的に「専門家の知見」なるものが状況の認識や判断において重視される背景には、ある分野の専門家は、その専門分野については、さきの精度の上がった「認識の型」を持っており、これまでの経緯と現状に対する推測、そして、この先についての予測などが適切に出来るであろうと、考えられているからです。

しかし、そこまで考えが及んで思ったのは「我が国の報道番組などにおいては、あまりそうした見解については期待していないのではないか?」ということです。また、そこからさらに思ったことは「こうした「認識の型」の精度などを重視しない社会であるからこそ、議論なども面倒で必要ないものと考えるのかもしれない。」ということであり、また「そうであれば各種芸術も、究極的には創造性などは必要ない、単なる型の作業の繰り返しということになり、そこからは相変態的な進化などが生じることがないであろう。」と思われるのです。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


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