本日は事情により早めに記事を作成、投稿しようと思います。
先日悪石島の「ボゼ祭り」動画を共有しましたが、この動画とは、その内容に加え、周囲の自然の音(鳥、虫など)に興味をおぼえました。
「そういえば、現在、こうした音が聞こえる自然環境にいないなあ・・。」といった感じです。
また、それが影響したものか、つい先日みた夢は、樹々植物が茂り日光の透過もまばらな山道を歩いている光景でした・・。
実際のそうした経験とは、鹿児島在住時の登山において得ています。またそれは、和歌山在住時のフィールド・ワークにて書籍に記載されている史跡を自身で検分するために、現在はほぼ人跡未踏とも思える山道を歩いた経験とも類似しております。
そうした時は「これで本当に道は合っているのだろうか?」と戸惑いながら歩いたものです・・(笑)。
また、実際に間違っていることもありましたが、その道の先に史跡を見つけることが出来ると、それはそれでなかなか嬉しいものでした・・。
そして、それで思い起こしたのは、和歌山県のある古墳のことです。
この古墳は何故か分かりませんが、あまり書籍に載っておらず、その存在を確かめようと、ある初夏の週末に記されている書籍を手に探しに出ますと、如何なる案内もなく、ただ書籍掲載の地図を頼りにしばらく歩くことになりました・・。
そして、これ(古墳)を探す道程の状況とは、さきに記した夢の中でのそれに類似しておりました。
また、こうした案内もなく(幾分昔の)書籍にのみ記された古墳等の史跡を発見した時の感覚とは、さきに記したようになかなか興奮するものです・・。
しかし、そうした経験を他者に話してみても、往々にして、あまり共感されないところが良いのだか悪いのだかよく分からないところです・・(苦笑)。
いや、それ以前に案外こうしたことは大仰に話す必要はないのかもしれません・・(笑)。
さて、そしてハナシが変り、今回の記事投稿により、投稿総記事数が498となり、500記事到達まで残り2記事となります。
そして、こうしたこともまた、あまり大仰に話す必要はないのかもしれません・・(笑)。
また、今現在500記事まで到達しているわけでもありませんので、むしろ、こうしたこと「今」記す必要はなく、ただ、現在のブログ記事を書く上でのネタとしては、さきに記した「史跡の発見に関連する感覚」と類似している可能性を示という意味においては悪くないということです・・(苦笑)。
とはいえ、その一方で、その間(「史跡の発見に関連する感覚」と「500記事到達間近」)に類似性が認められるのであれば、その類似性を知覚するさらに普遍的な意識、自我(ほぼ無意識、超自我に近いものかもしれない)の存在に対し言及することが出来るかもしれません・・。
そして、それは書いている本人にとっては多少なり意味があり、また、これを読んで頂いている方々もまた(ある程度)共感、納得できるのであれば、それなりに意味があるのかもしれませんが、これに関しては、その判断が難しいところです・・(笑)。
ともあれ、こうしてハナシは循環するのです・・(笑)。
何れにしましても、今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年12月3日土曜日
20161202 500記事到達後の断筆および自信について・・
A「本日は若干帰宅が遅くなりましたが、それでも時期が時期であるため、本日分のブログ記事を作成しておかねばと思います。
どちらかというと渋々、今現在(23:10)記事作成に取り掛かりました・・(苦笑)。
さて、昨日投稿した記事もまた、思いのほか多くの閲覧者数を得ることが出来ました。
これを読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。
また、それに加えて、昨日記事投稿直後の反応もまた大変面白く、考えさせるものでした・・。
そこまで(記している私が思いもよらない程)深く読んで頂けるのでしたら、私も毎回のブログ記事作成の意欲が湧いてくるというものです・・(苦笑)。
しかし、あと数記事投稿して500記事に到達したならば、以前書いた通り、一度、意識的な断筆を試みる所存です・・。
であるからといって、何か大きな変化が起きるとは考えてはおりませんが。
しかし、その一方において、自身の文章作成に対する「思い」といったものは、多少なりとも測ることが出来るのではないかとも思います・・。
そして、その「思い」を自身が認識して、はじめて何かしらの内面における変化といったものは生じるのではないでしょうか・・?
我々は一般に、無意識で「何らかの環境」を当たり前、所与のものとして、その環境の中にいる時は、それが持つ意味、影響力について考えることは困難であるように思います・・。
そして、その環境から抜け出た後、はじめて、その意味、影響力などについて考えることが出来るのではないでしょうか・・?
また、こうしたことを記しておりますと、不図思い起こされることは、以前ブログ記事に書いた煮物などで火をかけている時は具材に出汁はあまり浸透しておらず、より浸透するのは火を止めた後の冷却の過程であるということです・・。
そのように考えてみますと咄嗟に「この時期、季節に冷却というコトバは穏やかではないな・・」と思うのですが「そうであれば記事作成を継続するのか?」ということになりますが、何れにしても、500記事作成の後、一旦ある程度の期間、断筆を試みることは、少なくとも、これまでの人生でなかった面白い試みであるとは思いますので、これは是非行いたいと考えております・・(笑)。
しかし、そのようなことを(笑)で書くことが出来るということは500記事作成においても未だ余裕があるとも推察されますが、たしかに未だ現在、全てを出し切ったという感覚はありません・・。
これは自信過剰からくるものではなく、ごく自然な思いの表出であるといえますので、むしろ、これまでのブログ記事作成が過剰に「偽りの自信」に作用することの方を私はおそれます・・(おそらくそれはないと思われますが・・)。
また、自信というものも本来は内面から涌出するものであると思うのですが、残念ながらこれに関しては未だ「源泉を掘り当てた」といった感覚は得ておりません・・。
とはいえ、その一方で「何か分かった・・」という感覚とは幾つか得てはきているとも考えております・・。
これは私がそうして得た感覚の「取り扱い」を間違ってきたことに由来するのであろうか・・?
しかしながら、私見となりますが、特に夏目漱石の著作の面白さの多くとは、その一種の「自信の無さ」を述べているところに共感できる何かが認められるからではないかと考えます。
そして、それ故にか、彼は近代日本を悲観し、そして結果的に歴史とは、その通りになってしまった・・といって間違いではないように思われます・・。
また、それと同じ意味にて、太平洋戦争の敗戦という大きな痛手を被った世代の多くの著述家が、現代の日本社会を憂慮、危惧しつつ世を去っていったことに対し少なからぬ興味をおぼえるのです・・。
また、彼等世代を目の上のタンコブとし、それが去った後に跳梁跋扈する方々とは、果たして後世から如何なる判断が為されるのであろうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
ChatGPTによる加工後
今日は少し帰宅が遅くなりましたが、時期的に考えても、本日分のブログ記事はしっかり書いておきたいところです。とはいえ、正直なところ、渋々ながらも今(23:10)ようやく記事作成に取り掛かりました……(苦笑)。
さて、昨日の記事も予想以上に多くの方に読んでいただけたようです。ご覧いただいた皆様、ありがとうございます。また、投稿直後の反応も非常に興味深く、考えさせられるものでした。私自身が想定していなかったほど深く読んでくださる方がいることを知ると、次の記事への意欲も湧いてきます……(苦笑)。
しかし、あと数記事で500記事に到達することになります。以前も書いた通り、それを一区切りとして、一度「意識的な断筆」を試みるつもりです。だからといって、大きな変化が起こるとは思いませんが、自分の文章作成に対する「思い」を見つめ直す機会になるのではないかとも考えています。そして、その「思い」を自覚することで、初めて内面の変化が生じるのかもしれません。
我々は普段、無意識のうちに環境を所与のものとして受け入れています。その環境の中にいるときは、それが持つ意味や影響について深く考えることは難しいものです。しかし、一度そこから離れることで、ようやくその価値や影響力を認識できるのではないでしょうか。
このことを考えていると、以前ブログで書いた煮物の出汁の話を思い出しました。火にかけている間は具材に出汁が浸透しにくいものの、火を止めて冷ましている間にじっくりと染み込んでいく。文章を書くこともそれと似たところがあり、一定の「冷却期間」を置くことで、新たな視点が得られるのではないかと思うのです。
とはいえ、こんな時期に「冷却」という言葉を使うのも少し気が引けます……。では、記事作成を継続するのか? それともやはり断筆を試みるのか? どちらにしても、500記事という節目の後、しばらく筆を置くという試みは、これまでの人生で経験したことのない面白い挑戦になるでしょう。これはぜひ実行したいと思っています……(笑)。
このように笑いながら書けるうちは、まだ余裕があるとも言えます。実際、500記事を目前にしても、「すべてを出し切った」という感覚はありません。これは単なる自信過剰ではなく、自然な思いの表れです。むしろ、これまでのブログ執筆が「偽りの自信」を生み出すことの方を警戒すべきでしょう(おそらく、その心配はないと思いますが……)。
また、本来「自信」とは内面から湧き出るもののはずですが、残念ながら、今のところ「その源泉を掘り当てた」と感じることはできていません。それでも、「何かをつかんだ」という感覚はいくつか得ている気がします。しかし、それをうまく活かせてこなかったのではないか……そんな思いも頭をよぎります。
こう考えると、夏目漱石の作品が持つ魅力の一端は、彼自身の「自信のなさ」にあるのではないかと思います。漱石は日本の近代化に懐疑的であり、結果的にその懸念は現実のものとなりました。同様に、太平洋戦争の敗戦を経験した世代の多くの作家が、現代社会に対して憂慮や危機感を抱きつつ世を去っていったことにも興味を覚えます。
彼らが去った後、彼らの存在を「目の上のたんこぶ」としていた者たちが跋扈する時代となった今、果たして彼らは後世からどのような評価を受けるのでしょうか? その答えが明らかになるのは、まだもう少し先のことかもしれません。
どちらかというと渋々、今現在(23:10)記事作成に取り掛かりました・・(苦笑)。
さて、昨日投稿した記事もまた、思いのほか多くの閲覧者数を得ることが出来ました。
これを読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。
また、それに加えて、昨日記事投稿直後の反応もまた大変面白く、考えさせるものでした・・。
そこまで(記している私が思いもよらない程)深く読んで頂けるのでしたら、私も毎回のブログ記事作成の意欲が湧いてくるというものです・・(苦笑)。
しかし、あと数記事投稿して500記事に到達したならば、以前書いた通り、一度、意識的な断筆を試みる所存です・・。
であるからといって、何か大きな変化が起きるとは考えてはおりませんが。
しかし、その一方において、自身の文章作成に対する「思い」といったものは、多少なりとも測ることが出来るのではないかとも思います・・。
そして、その「思い」を自身が認識して、はじめて何かしらの内面における変化といったものは生じるのではないでしょうか・・?
我々は一般に、無意識で「何らかの環境」を当たり前、所与のものとして、その環境の中にいる時は、それが持つ意味、影響力について考えることは困難であるように思います・・。
そして、その環境から抜け出た後、はじめて、その意味、影響力などについて考えることが出来るのではないでしょうか・・?
また、こうしたことを記しておりますと、不図思い起こされることは、以前ブログ記事に書いた煮物などで火をかけている時は具材に出汁はあまり浸透しておらず、より浸透するのは火を止めた後の冷却の過程であるということです・・。
そのように考えてみますと咄嗟に「この時期、季節に冷却というコトバは穏やかではないな・・」と思うのですが「そうであれば記事作成を継続するのか?」ということになりますが、何れにしても、500記事作成の後、一旦ある程度の期間、断筆を試みることは、少なくとも、これまでの人生でなかった面白い試みであるとは思いますので、これは是非行いたいと考えております・・(笑)。
しかし、そのようなことを(笑)で書くことが出来るということは500記事作成においても未だ余裕があるとも推察されますが、たしかに未だ現在、全てを出し切ったという感覚はありません・・。
これは自信過剰からくるものではなく、ごく自然な思いの表出であるといえますので、むしろ、これまでのブログ記事作成が過剰に「偽りの自信」に作用することの方を私はおそれます・・(おそらくそれはないと思われますが・・)。
また、自信というものも本来は内面から涌出するものであると思うのですが、残念ながらこれに関しては未だ「源泉を掘り当てた」といった感覚は得ておりません・・。
とはいえ、その一方で「何か分かった・・」という感覚とは幾つか得てはきているとも考えております・・。
これは私がそうして得た感覚の「取り扱い」を間違ってきたことに由来するのであろうか・・?
しかしながら、私見となりますが、特に夏目漱石の著作の面白さの多くとは、その一種の「自信の無さ」を述べているところに共感できる何かが認められるからではないかと考えます。
そして、それ故にか、彼は近代日本を悲観し、そして結果的に歴史とは、その通りになってしまった・・といって間違いではないように思われます・・。
また、それと同じ意味にて、太平洋戦争の敗戦という大きな痛手を被った世代の多くの著述家が、現代の日本社会を憂慮、危惧しつつ世を去っていったことに対し少なからぬ興味をおぼえるのです・・。
また、彼等世代を目の上のタンコブとし、それが去った後に跳梁跋扈する方々とは、果たして後世から如何なる判断が為されるのであろうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
ChatGPTによる加工後
今日は少し帰宅が遅くなりましたが、時期的に考えても、本日分のブログ記事はしっかり書いておきたいところです。とはいえ、正直なところ、渋々ながらも今(23:10)ようやく記事作成に取り掛かりました……(苦笑)。
さて、昨日の記事も予想以上に多くの方に読んでいただけたようです。ご覧いただいた皆様、ありがとうございます。また、投稿直後の反応も非常に興味深く、考えさせられるものでした。私自身が想定していなかったほど深く読んでくださる方がいることを知ると、次の記事への意欲も湧いてきます……(苦笑)。
しかし、あと数記事で500記事に到達することになります。以前も書いた通り、それを一区切りとして、一度「意識的な断筆」を試みるつもりです。だからといって、大きな変化が起こるとは思いませんが、自分の文章作成に対する「思い」を見つめ直す機会になるのではないかとも考えています。そして、その「思い」を自覚することで、初めて内面の変化が生じるのかもしれません。
我々は普段、無意識のうちに環境を所与のものとして受け入れています。その環境の中にいるときは、それが持つ意味や影響について深く考えることは難しいものです。しかし、一度そこから離れることで、ようやくその価値や影響力を認識できるのではないでしょうか。
このことを考えていると、以前ブログで書いた煮物の出汁の話を思い出しました。火にかけている間は具材に出汁が浸透しにくいものの、火を止めて冷ましている間にじっくりと染み込んでいく。文章を書くこともそれと似たところがあり、一定の「冷却期間」を置くことで、新たな視点が得られるのではないかと思うのです。
とはいえ、こんな時期に「冷却」という言葉を使うのも少し気が引けます……。では、記事作成を継続するのか? それともやはり断筆を試みるのか? どちらにしても、500記事という節目の後、しばらく筆を置くという試みは、これまでの人生で経験したことのない面白い挑戦になるでしょう。これはぜひ実行したいと思っています……(笑)。
このように笑いながら書けるうちは、まだ余裕があるとも言えます。実際、500記事を目前にしても、「すべてを出し切った」という感覚はありません。これは単なる自信過剰ではなく、自然な思いの表れです。むしろ、これまでのブログ執筆が「偽りの自信」を生み出すことの方を警戒すべきでしょう(おそらく、その心配はないと思いますが……)。
また、本来「自信」とは内面から湧き出るもののはずですが、残念ながら、今のところ「その源泉を掘り当てた」と感じることはできていません。それでも、「何かをつかんだ」という感覚はいくつか得ている気がします。しかし、それをうまく活かせてこなかったのではないか……そんな思いも頭をよぎります。
こう考えると、夏目漱石の作品が持つ魅力の一端は、彼自身の「自信のなさ」にあるのではないかと思います。漱石は日本の近代化に懐疑的であり、結果的にその懸念は現実のものとなりました。同様に、太平洋戦争の敗戦を経験した世代の多くの作家が、現代社会に対して憂慮や危機感を抱きつつ世を去っていったことにも興味を覚えます。
彼らが去った後、彼らの存在を「目の上のたんこぶ」としていた者たちが跋扈する時代となった今、果たして彼らは後世からどのような評価を受けるのでしょうか? その答えが明らかになるのは、まだもう少し先のことかもしれません。
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