また、この勝利によって、多くの日本国民は自らが東アジアの一国の国民であることを忘れ、徒に清国を蔑み、自らを白人と擬するような傾向もまた強くなっていった。(現在においても、その影響は、良し悪しを抜きに、色濃く我々の社会に残っているのではないだろうか。)
日清戦争後の下関条約によって日本が清国から割譲した領土のうち、遼東半島は、その後の露・独・仏による三国干渉により、すぐに清国に返還されたが、その地にはロシア帝国が侵入し、実質的に自らの領土とすべく、軍港や軍事基地などの建設を行うに至った。
こうして、状況は好ましくない方へと進展し、さらに1900年には義和団の乱(北清事変)が生じ、その鎮圧にあたった西欧諸国や日本の軍隊によって構成される連合軍の中で、ロシア帝国軍の現地での暴虐が目立ち、そうした行動は、当時、朝鮮半島に権益を有し、また、新参の西欧流帝国主義国となっていた日本としては看過し得ないものであった。
さらに、こうした東アジアでの状況は、同地域に植民地などの権益を有する西欧諸国においてもまた好ましくないものであったことから、日本に同情的な国も少なからずあり、また1902年には当時の国際社会において、ワーテルローの戦い以来、最強と目されていた英国(大英帝国)との軍事同盟を締結するに至った。
その後もロシア帝国の極東地域での暴虐振りは止まらずに、1904年の日露戦争開戦へと至るのであるが、この戦争は、さきの日清戦争と比べると軍事・財政共に苦心惨憺たるものがあり、アメリカ合衆国からの調停によって、どうにか自国領土は保全され、さらに幾何かの新たな領土をも獲得することが出来、対外的には「日本国の勝利」と云えるものであったが、そこに至るまでの経緯は、当時の日本国からすると、薄氷を踏みつつ川を渡るようなものであったと云える。
また、他方において、この日本国の勝利により、ユーラシア大陸東西でのロシア帝国の南下政策によって、自国権益の保全が懸念される西欧諸国の権益を益々安泰とさせることになった。見方によれば、この日露戦争において日本は、終始、西欧諸国の権益・国益に奉仕させられたのだとも評し得る。
さきの日英同盟を結んだ英国もまた、日本に対して、極東における、そうした役回りを期待しており、あるいは端的に、それは、主人と従僕のような関係であったとも云えるが、その従僕は、後年に至り、極東にて西欧諸国から期待される役回りに飽き足らず、更なる権益の拡張をはかるようになり、面倒な状態へと陥った。さらに1920年代以降からは、欧州においては自国国益のためには、既存の国際社会に反することをも辞さないファシズム(全体主義)国家がいくつか誕生しており、この勢力と日本との同盟によって、国際社会における国々の対立がさらに先鋭化され、そして第二次世界大戦、太平洋戦争の開戦へと至る。
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順天堂大学保健医療学部
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