2021年10月19日火曜日

20211019 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.182-184より抜粋

 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」

pp.182-184より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

近代以降の世界で伝統宗教が相変わらず力を持っており、重要であることを示す最適の例は、日本かもしれない。1853年にアメリカの艦隊が近代世界に対して日本の門戸を開かせた。それに応じて、日本は急速な近代化に乗り出し、大成功を収めた。数十年のうちに、科学と資本主義と最新の軍事テクノロジーに依存する強力な官僚国家となり、中国とロシアを打ち負かし、台湾と朝鮮を領土とし、最終的には真珠湾でアメリカ艦隊を撃沈し、極東におけるヨーロッパ人による帝国主義支配を覆した。とはいえ日本は、やみくもに西洋の青写真をなぞったわけではない。日本は独自のアイデンティティを守り、近代の日本人を科学や近代性、あるいは、何らかの漠然としたグローバルなコミュニティではなく祖国に対して確実に忠実たらしめることを固く決意していた。

 その目的を達成するために、日本は固有の宗教である神道を日本のアイデンティティの土台とした。実際には、日本という国は神道を徹底的に作り直した。伝統的な神道は、さまざまな神や霊や魔物を信じるアニミズムの信仰の寄せ集めで、どの村も、お気に入りの霊や地元の風習を持っていた。19世紀後期から20世紀初期にかけて、日本は神道の公式版を創り出し、地方の伝統の数多くを廃止させた。この「国家神道」を、日本のエリート層がヨーロッパの帝国主義から学んだ、国民や民族という非常に近代的な考え方と融合させた。そして、国家への忠誠を強固にするのに役立ちうるものなら、仏教や儒教、封建制度の武士の気風のどんな要素も、そこに加えた。仕上げに、国家神道は至上の原理として天皇崇拝を神聖化した。天皇は太陽の女神である天照大神の直系の子孫で、自身も現人神であると考えられていた。

 一見すると、新旧のこの奇妙な組み合わせは、近代化の速習コースを受けようとしている国にしては、はなはだ不適切な選択に思えた。現人神?アニミズムの霊?封建制度の気風?これは近代の工業大国というよりも新石器時代の族長支配のように聞こえる。

 ところが、これが魔法のように効果を発揮した。日本人は息を呑むような速さで近代化すると同時に、国家に対する熱狂的な忠誠心を育んだ。神道国家の成功の象徴として最も有名なのは、日本が他の大国に先駆けて、精密誘導ミサイルを開発した事実だ。アメリカがスマート爆弾を実戦配備するよりも何十年も前、そして、ナチスドイツがようやく初歩的な慣性誘導式V2ロケットを配備し始めていた頃、日本は精密誘導ミサイルで連合国の艦船を何十隻も沈めた。このミサイルは、「カミカゼ」として知られている。今日の精密誘導兵器はコンピューターが誘導するにに対して、カミカゼは爆弾を積んだ通常の飛行機で、片道の任務に進んで出撃する人間の搭乗員が操縦していた。このような任務に就く意欲は、国家神道に培われた、命知らずの自己犠牲精神の産物だった。このようにカミカゼは、最新のテクノロジーと最新の宗教的教化の組み合わせを拠り所としていたのだった。

 知ってか知らずか、今日非常に多くの政府が日本の例に倣っている。現代の普遍的な手段や構造を採用する一方で、伝統的な宗教に頼って独自の国家としてのアイデンティティを維持している。日本における国家神道の役割は、程度こそ違うものの、ロシアでは東方正教会のキリスト教が、ポーランドではカトリック教が、イランではシーア派のイスラム教が、サウジアラビアではワッハーブ派のイスラム教が、イスラエルではユダヤ教が担っている。宗教はどれほど古めかしく見えたとしても、少しばかり想像力を働かせて解釈し直してやれば、いつでも最新テクノロジーを使った装置や最も高度な現代の機関と結びつけることができる。

20211018 本日多く読んで頂いた記事の傾向から思ったこと

おかげさまで一昨日の投稿記事「10月14・15日投稿の2引用記事の投稿経緯について・・」も投稿後2日としては、比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そして、本日については、また書籍からの引用を以て充てようと考えていましたが、やはり「自分で書くことが出来る時は、自分が書いておこう。」と思い直して、さきほど来より記事作成を始めた次第です。

さて、本日に関しては、どうしたものか「才能」について扱った記事が比較的多く読んで頂いていましたが、才能については、たとえば運動の才能などは分かり易いものと云えます。

また、それとは趣が異なりますが、自然科学分野での才能も比較的分かり易いのではないかと思われます。しかしそれは、その専門分野を話題としている時であり、当該分野以外の、いわば他愛もない雑談の中からは、なかなか分かり難いのではないかと思われます・・。

つまり、自然科学、理系分野での才能は、その専門分野について語り、述べている時に分かり易いのではないかと思われます。

一方、これが人文社会科学、文系になりますと、上記ほどには分かり易いものではなく、ある程度の期間、その述べるところを聞いてみないとよく分からないのではないかと思われるのです・・。

以前、歯系院に在籍していた頃、周囲の方々に人文社会科学ネタの話題を振ってみても、ウケは良くなく、さらには、私が何か出まかせ、適当なコトを云っているのではないかとも思われていたようです・・。ある時、実験室か休憩室にて、そうしたハナシ(たしか日本近現代史ネタ)をしていますと、その場におられた先輩院生が突如、その話した内容の真偽をネットで調べ始め、そして、私に質問を振ってこられました。その質問内容は、特に難しいものではなく、間違ってはいないと思われる返答をしますと、しばらく考えた後に「うーん」と唸り、続けて「なるほどぉ・・」と納得されたようでした・・。こうしたことは歯系院在籍の頃は最後の最後まで度々ありましたが、幸運であったのは、この時の周囲の方々の多くは、私が話す人文社会科学ネタが、そこまで荒唐無稽なものではないようだと納得されると、半ば悪意的あるいは挑発的に論うことはなくなっていったことでした。・・。多分「たしかにコイツは少しおかしいけども、人文系のことについては多少は知っているようだ・・。」といった感じになったのではないかと思われます・・(笑)。

そしてまた、実験や研究については、また別の言語世界がそこにはあるのです・・。その中で、私などはバイオ系の知識などはほぼ皆無であり、歯科材料の専門家とされる歯科技工士ではあるのですが、その背景にあるものは、なんだかよく分からず、そこでは(ほぼ)評価の仕様がない、人文社会科学分野の知識であり、そこから、私はどうも変に理屈っぽく、扱い難い存在であったのかもしれませんが、他方で、私はかつて団体球技の運動部に所属し、また一応社会人として5年間を過ごし、また、歯系院での研究室の方々は、教授をはじめ、そうした話題を研究分野以外のものとしてハナから認めないといった(閉鎖的な)方々ではなく、理があり、背景知識がそこまでおかしなものでなければ、興味を持って聞いて下さり、現在考えてみますと、概して良心的で鷹揚な方々であったのだと云えます。

しかしそれでも、2013年の学位審査の頃は、それまでに蓄積された「何か」によって、おかしくなっており、ある一歩を踏み外すと、これまで培ってきた人文社会科学分野での知識も雲散霧消してしまうといった強い感覚もあり、そうした中「お前はこれまで学位取得のため、指導教授がいなくなってからも一人でやってきた。そしてここで上手く行けば、この分野の教員にもなれるかもしれない・・。しかし、そうなったら、これまでお前が好んで学んで来た人文社会科学分野の知識はなくなるであろう・・何しろ、そんなものは、この分野の教員には必要ではないし、また、専門分野以外のことを変に知っていても、それは本業の分野を圧迫することだろう・・。」といった、それまでの生活で培った、いわば、その世界での常識といった意見も反芻され、あるいはそれなりにアブナイ状況であったのかもしれません・・。

そして、どうにか学位取得は叶いましたが、そこからは今現在に至るまで、さきに述べたような精神的危機のような状況はありませんでしたが、同時に、自分の無能、非才振りからの鈍痛を感じるような日が多く、また、そうして徐々に弱くなっていく自分が認識され、そこからもまた、落ち込み、鬱気味になることが多く、そうした時には「指導教授さえ退職にならなければ・・」と、り場の無い「怒り」が湧いてくることがあり、これは未だに意識して抑えないと、さらに沸々と沸いてくるようです・・。

しかしながら、そこで不図思い出されたのが、以前の投稿記事にて述べていた

「そういえば、S教授には、同じ研究分野にて着実に地歩を固めつつある若手の後継研究者と云われるような存在はなく、むしろ逆に、この研究分野、いやS教授のもとで学位を取得されると、どうしたわけか、より素の自分に近いと思われる研究分野へと進まれて行くといった不思議な傾向があるように見受けられた・・。」

そしてもう一つが

「去る7月24日投稿分の「【架空の話】・其の67 【モザイクのピースとなるもの】」のなかで、登場するS教授について「S教授には若手の後継研究者とされる存在はなく、むしろ、その研究室で学位を取得すると、その先は、それぞれ、より御自身の素に近いと思われる分野に進んでいくといった、何やら不思議な傾向があるように見受けられた。」といったことを述べましたが、これは、私の歯科理工学分野の師匠を思い出し、モデルとしたものであり、たしかにその弟子筋の先生方を思い返してみますと、今現在、同じ研究分野に残っているのは皆無ではないもののごく少数であり、他の多くの先生方は違う研究室に在籍されているか、開業医・勤務医になられているかの何れかであると云えます。しかし、今現在、研究室にはいないからといって、活性が低くなっているかと云うと、そうでもなく、それぞれ、やはり御自身の得意とするところを活かし、ご活躍されておられると聞き及んでいます。そして、ここまで書いていて思い出されたことは、何らかの行動により、その人の才能が分かるといったことが時折ありますが、これを初めて感じたのは在鹿児島の頃でした。あるいは当時、ストレスにより少し過敏になっており、他者の行動の一つ一つが気になっていたのかもしれません。ともあれ、それと同じ頃に「何かこの人はスゴイな・・」と感じ始めるようになったということには何らかの関連があるように思われ、そして、それを生じさせているものは「内面での葛藤」であると思われます。」

でしたが、これらを視座として考えますと、私の場合は、これまで、どうにか続けてきた当ブログこそが「自身の得意とするところを活かし・・」であったのではないかとも思われるのですが、もし、そうであるとしますと、さきの「指導教授さえ退職にならなければ・・」とは、むしろ逆に、実はこれがあったからこそ、当ブログを続けることが出来ているのだとも云えてしまうのですが、果たして、そのあたりはどうなっているのでしょうか・・。

「人間万事塞翁が馬」なのでしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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メールアドレス: clinic@tsuruki.org

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