株式会社筑摩書房刊 宮台真司著「終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 : 4480033769
ISBN-13 : 978-4480033765
私たちの社会には、もともと一神教的な神はいない。だからそういう神の前で感じ入る「罪の意識」もあり得ず、他人に指弾されようが「我、これを信ず」と言い続けられるような「内的確かさ」もあり得ない。私たちの社会は「倫理」なき社会だ。倫理の代わりに見いだされるのは、自分の属する共同体のメンバーにとって良きことこそが良きことであると感じるような、共同体のまなざしによって自らを持する「外的確かさ」である。これを「道徳」という。「良心」という、排他的な二つの類型に分割できる。
しかし、一九五〇年代後半からの団地ブームと並行して急速に進んだ郊外化と人口流動化の高まりは、伝統的なムラの共同性を急速に踏み散らかす。大型家電ブームと米国製テレビドラマブームに沸いたこの時代は、週刊誌では「団地売春」ネタが定番になり、六〇年代に入ると秘密を抱えて生きる人妻が昼メロやピンク映画に登場しはじめる。団地化によってかつての共同性が踏み破られていくにつれて、道徳の母体もまた消えていくことを象徴するシンボリズムである。もちろん売春した主婦は一部に過ぎない。「やさしいママと頼りがいのあるパパと皆から好かれる良い子」からなる団地家族の幻想を生き得たことが、失われた村落的共同体をしばらくの間は埋め合わせ、「母や父を思うととてもできない」「子供を思うととてもできない」という類のしばりを有効に機能させたのである。
しかし、このような不自然な「家族への内閉化」は長続きするはずもない。実際、八〇年代の高度情報化を通じて、テレビも電話も個室化し、互いがどのようなメディア環境を生きているのかさえ不透明化した。「友だち家族=表面的には平穏無事のバラバラ家族」の中で、主婦や子供たちは、家にも地域にも帰属しない「都市的現実」へと漂い出し、テレクラ主婦として、ブルセラ女子校生として、適応しはじめる。文学者ではなく、私たち自身がかつての良心の「基礎」が消えたことに気づく。私たちは「自由」になったのである。実際そのような自由こそ、私たちが戦後一貫して求めてきたものだった。八〇年代にいたり、パラダイスは実現した。かくして、「倫理なき社会」で「道徳の母体」が消失するとき、「私たちが良心的存在たりうるのはいかにしてか」という問題だけが残った。