2017年8月14日月曜日

20170814 あらためて東京の街で思ったこと・・マンガ文化と活字文化

A「ここしばらくの間、かなり久しぶりに通史的とも云える書籍を読んでいます。

こうした種類の書籍は、読みそしてその内容をある程度理解するまでに多少時間を要することから、ここ最近は敬遠していたように思います・・。

これまでに読んだ、こうした通史的な文献にて面白いと感じた最初の著作はポール・ケネディ著の「大国の興亡」であり、これを読んだ時期とは、丁度、近現代史に対する興味が本格的なものとなっていた時期でもありましたので、それなりに熱心に読んだ記憶があります。

とはいえ、我が国において時折、ベストセラーと称され、書店店頭に高く積まれる、こうした通史的な書籍とは、たしかに宣伝にあるように多く購入されているのでしょうが、それと同時に、果たして、その書籍が、どの程度まで深く読まれているのであろうか?と疑問に思うことがあります・・。

その理由とは、こうした通史的な書籍とは、冒頭に書いたように『その内容をある程度理解するまでに多少時間を要する』ことから、少なくとも、その書籍が売れた時期からいくらかのタイムラグを置き、その影響といったものが徐々に社会に現れてくるのではないかと思われるのです・・。
【その影響らしきものを感知することは極めて少ない。】

あるいは、書籍文章の字面のみを辿っていくのもまた読書であり、また、そうした読み方が主流であるとするならば、その影響といったものが社会に現れてくることはかなり少ないのではないかとも思われます・・【実質的に読まれていないのだから】。

この後者の意見とは、かなりひねくれた見方であるのかもしれませんが、しかし、時折耳にする、あるいは書籍文献などで読む『我が国の性質』といったものを勘案してみますと、案外この後者の方が事実に近いでのはないかとも考えさせられることがあります・・。

そうしますと、実際の現在の我が国の文化水準とは概ね、あるいはアニメ、マンガ(のみ)によって表出可能なものであるのかもしれません・・。

もちろん、私はアニメ、マンガをあまり好きではないにしても、バカにするつもりはありませんが、その本質において、活字文化とマンガ文化とは異なるものであり、どちらか一方で、自国の文化を代表し得る、あるいは活字文化もマンガ文化に包摂可能であると考えることは、おそらく文化全般としては衰頽の兆候ではないかと思われるのです・・。
【何でも(マンガのように)分かり易ければそれで良いというわけではないと思うのですが・・。】

しかし、とは思いつつも、それに対する適当な対案も今現在のところありませんので、歯がゆいところではあるのですが、まあ、どうしようもないのでしょう・・(苦笑)。

ともあれ、そこからハナシを戻し、現在読んでいるこの書籍の内容に関連して『便利さ、分かり易さが至上命題となった社会においてマンガ文化が活字文化を併呑、凌駕し、それに伴い文化水準全般が劣化し、その国が崩壊に至るということはあるのだろうか?』と考えさせられるのですが、果たしてどうなのでしょうか・・?

何れにしましても、露出がやけに多いコスチュームをまとった何らかのマンガ・アニメヒロインが駅の大きなポスターに貼りだされていることはどうしても普通、尋常な事態ではないと思われるのです。

また、外国人もそうした光景を見て日本人に対しては『日本のアニメ文化はポピュラーでここまで社会に根付いているのですね。』といったことを述べつつも、その隠された本音とは、ここでは到底書けないようなことを考えているのではないかと思われるのです・・。

期せずして高度経済成長期(あるいはそれ以前)に日本が海外に発信した本音と建前といった文化は、21世紀に至り、外国の方々にも広汎に認知され、それを本家本元たる我が国にて用いることが流行しているのではないかと不図思うことがあります・・(苦笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』










20170813 久しぶりに西日本に出向いて思ったこと・・意味を感じる、理解する・・?

所用にてしばらく首都圏を離れ、西日本某都市へ赴いていました。本日の夕刻過ぎにこちらに戻りましたが、やはり西日本の方がいくらか蒸し暑かったのではないかと思われます。

それは日中から夜半を通じ、歩いている際にも自然と汗が出てくるといった感じであり、この感覚は、何といいますか、久しぶりに体験することにより、かつて、そうした環境・大気の中にて住んでいたことが思い出されるといった感覚であるとも云えます。

また、この感覚は、ある程度の期間、その地域に住むことによって(はじめて)体得し得るといった性質のものでもあり、且つ、それは地域内広域において感じ得るもの(大気、日光の強さなど)から地域内においてさらに限定的に感じ得るもの(特定のお店が提供する食べ物など)に至るまで多岐に渡り、それら全てを包含した「系」のようなものが、感覚的な意味における『その地域』ということになると思われます。

こうしたものは、おそらくあまり言語化されることはありませんが、こうした感覚、体感がなければ、その地域、都市と
は自身にとって、単なる地図上の地名としての記号に留まるもの、または書籍文献に書かれている具体的内容を感知し得ない言説つまりは無機的なコトバの羅列に留まるということになるといえます。

そしてまた、こうした感覚は、地域軸のみならず時間軸においても作用もしくは応用可能であり、その意味で、地域におけるさまざまな史跡、遺跡あるいは寺社仏閣などとは、さきに書いた感覚的な意味での現時点の『その地域』の構成要素であると同時に、さらに、それらに付随するさまざまな『物語としての歴史』をも認識し、それを現時点における感覚と結節することにより、その感覚とは、時間軸においても延長・拡大することが出来るのではないかと考えます。

つまり、先ずはじめに現時点における種々認識があり、そこからさまざまな能動的な興味関心に基づいた知見を深める、広めることにより多面(地域・時間軸等)にわたり『その地域』というものを(先ずは主観的に)知っていくのではないかと思われるのです・・。

また、そのように考えてみますと、少なくとも自身の場合、そうした方法の繰り返し、蓄積を通じて(決して多いとは云えないものの)いくばくかの知識、知見を得てきたと自覚しますが、こうした方法とは、さきの『その地域』あるいは『物語としての歴史』のみならず自身の場合は、実験を用いる理系学問分野においてもまた同様であったのではないかとも思い至るのです。

このことをもう少し具体的に書きますと、自身の場合、地域での日常生活のなかで自然に発生した時間軸的な要素への興味、つまり出土、発見された遺跡、古墳および土器、青銅器、鉄器などに対する漠然とした興味あるいは、どうにかそれらを認識したいといった欲求から、あとに続く現在の歯科用材料に対する実験を用いる方法、アプローチへの興味に結節したということになるといえます・・。

とはいえ
、こうした方法あるいは(自然発生的ともいえる)興味の生成過程が、現在の諸学問において用い得る、価値を持つ方法論として正統、正当であるのかは分かりかねるところではありますが・・。

しかしながら、こうした方法に拠って、いくつかの学問分野を横断する知識、知見が得られたという個人的な実感、自覚とは、少なくとも虚偽ではなく、また自身という決して優秀とは云いかねる人間が一応そうした実感を得るに至ったことには、応用の仕方が限局されるものではあるのかもしれませんが、何かしらの人間そのものに対する知見が多少は含まれているのではないかとも考えられるのではないかと(多少自意識過剰気味ではあれ)思うことがあるのですが、さて如何でしょうか・・(笑)。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害によって被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。』