また、かなり久しぶりに井の頭線に乗りました・・。
乗車する電車が下北沢駅を通過の際は、その街並みを眺め、しばし感慨に耽っていました・・。
この街はかつて足しげく通い親しんだものでしたが、現在になり思い返してみますと、和歌山市のぶらくり丁、鹿児島市の天文館、騎射場、福岡市の天神、大名、西新などの方がかえって味わい深いのではないかと思われます・・。
特に天文館は週末の夜になりますと、何ともいえない面白い雰囲気になるのです・・。
また、これは夏になると、さらに、さまざまな熱気により一層拍車が掛かるのではないかと思われます・・(笑)。
現在思い返してみますと、夏の夜の天文館とはどうも一種、夢の中ような感じを受けるのです・・(笑)。
また、鹿児島在住時の週末はよく天文館に出向いておりましたが、在住期間の後半(2012~2013)とは、以前もブログ記事に書いた通り少々おかしくなっていました・・(苦笑)。
いや、しかし一方、この当時とは、それまでの人生において最も文章が滑らかに涌出していた時期であったのではないかと思われますので、もしかすると、人間とは、案外、多少おかしくなっている方が文章などはよく書けるのかもしれません・・(笑)。
そういえば、司馬遼太郎は「漢詩などを書く際の人間とは、英雄豪傑の心境といった、一種酔い(詩境)が回っている状態である」といったことをどこかで述べていました。
また、北杜夫はどこかで完璧に近いドイツ語の文章にて「ヒュペーリオン」を書いたヘルダーリンは三十代半ばで統合失調症を発症し塔に幽閉されたとも述べていました・・。
さらに、三島由紀夫は「文章とは、酒のようにその効果が普遍的ではないが、ある種の文章がある種の人々を酔わす性質がある、つまり文章とは元来酔う性質のものなのである」といった意味のことをどこかで述べていました。
それらのことから、程度は随分異なると思われますが、やはり当時の自身とは、如何なる経緯によるものであるか明瞭には分かりませんが、多少、上記と類似するメカニズムが精神に作用していたのではないかと思われるのです・・(苦笑)。
そしてまた、当時のことを、如上のように想起し述べますと、それに付随する景観として、天文館が浮かび上がってくるわけなのです・・(笑)。
とはいえ、であるからといって、天文館がそうした精神状態を惹起させるということではなく、あくまでも自身がそうした状態にあった時、偶然多く見た景観、街並みが天文館であったということです・・。
また、現在このようにブログ記事作成を継続している状況において、再度そのようになりたいか?と問われましたら、それは積極的に否定します・・。
ああした状態とは、他面において精神の燃焼速度が急加速している時でもあり、それが継続すると結果として何かしら反動的な効果、現象が生じるものと考えるからです・・。
それでしたら、現在のように多少呻吟しながらも、ほぼ毎日継続して書くことにより、わずかながらの漸進的な発展が為される方が余程良いと考えます・・(笑)。
しかし反面、かつての文筆家には破滅型に分類される天才肌の方々が少なからずおりましたが、現在はそうした文筆家の存在は、社会が許さなくなってきているのでしょうか・・?
そして、おそらくこうしたことにも『時代精神』は密接に関与しているのではないかと考えます。
あるいはまた、こうした題材はトーマス・マン著「トニオ・クレーゲル」の主題とも関連しているのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年の熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。」