株式会社岩波書店刊 加藤周一著「羊の歌」-わが回想- pp.101‐103より抜粋
ISBN-10 : 4004150965ISBN-13 : 978-4004150961
祖父の家が一歩一歩没落の道を辿っていったときに、祖母の側の親類は栄えていた。祖母の兄は、その頃実業界で成功し、独占的な大燃料会社の副社長になっていたし、弟は海軍で昇進し、少将となり、やがて中将となった。30年代の後半に満州ではじまったいくさは、いよいよ拡がりつつあったから、もとより大燃料会社の景気はよく、海軍の高級将校の威勢はいよいよ増すばかりであった。
副社長はよく親類縁者の面倒をみた。その会社にはいたるところに一族が就職して働いていた。しかし傾きかけた妹の家、つまり祖父の家を救うところまではゆかなかった。たとえ望んでも、その能力はなかったのかもしれない。副社長といっても、技術者の社員から昇進したので、大株主ではなかった、娘がひとりあって、娘婿が後に同じ会社の副社長になった。
この人は快活な人柄で、相手によってわけへだてしなかった。私の父とさえも、-というのは、この気むずかしい医者とうちとけて話す人は親類のなかにも少なかったからだが、会えば談笑して倦まなかった。中学生の頃の私は、この副社長の一家とほとんどつき合っていなかったが、太平洋戦争の後、パリで貧乏暮らしをしていたときに、その娘婿、つまり二代目の副社長と、思いがけなく一晩を過ごしたことがある。下宿に突然手紙がきて、しかじかの日にパリに行くから、よろしくたのむと簡単に書いてあった。飛行場へ行ってみると、彼は鞄持ちの会社員を二人連れてあらわれ、「やあ、どうだい」といった。その気さくな調子が、私にいくさのまえの記憶をよびさまし、大会社の副社長という肩書きを忘れさせた。
海軍少将は、若いときに英国へ留学し、ロンドン軍縮会議の頃大使館附武官をしていたこともあって、英国の文化を尊敬していた。親類の集りでも、英国人の風俗やその歴史について語ることが多かったと思う。30年代後半の日本で海軍の将校が外国人と交際することは少なかったから、どの程度に英語を話したかはわからない。しかしよく英語の本を読んでいた。オークション・ブリッジという遊びを、私たちの家庭にもちこんだのも彼である。
あるときには、巡洋艦の艦長をしていたし、あるときには、揚子江艦隊の司令官で、またあるときには、艦政本部長でもあった。私は子供の頃巡洋艦に招かれたことをよく覚えている。それは県知事になった伯父の権力をはじめてみたときとは全くちがう印象を私にあたえた。県知事には役人がへつらっていた。県庁の役人たちは、ほとんど陰惨な気をおこさせるほど卑屈だった。しかし巡洋艦の水兵たちは少しも卑屈ではなかった。彼らはお世辞をいわず、必要最小限度以外には口をひらかず、しかし敏捷で、正確で、能率的で、艦長の客に対しては申し分なくゆきとどいていた。そこでは人間の組織が機械のように動き、ほとんど美的な感動を与えた。その印象があまりにも強かったので、私はその他のすべてのことを忘れてしまったのかもしれない。その巡洋艦の大きさも、その日誰が一しょに招待されていたかということも、またおそらくは晴れた日の海の色や、飛び交う鷗や、風にひるがえる軍艦旗も。私たちはこの海軍将校を「おじさん」とよび、またあるときには「提督」とよんでいた。提督は太平洋戦争の前後を通じて一種の見識を有し、決してそれをゆずろうとしなかった。それは狂信的な超国家主義は必ず国をほろぼすということである。
副社長はよく親類縁者の面倒をみた。その会社にはいたるところに一族が就職して働いていた。しかし傾きかけた妹の家、つまり祖父の家を救うところまではゆかなかった。たとえ望んでも、その能力はなかったのかもしれない。副社長といっても、技術者の社員から昇進したので、大株主ではなかった、娘がひとりあって、娘婿が後に同じ会社の副社長になった。
この人は快活な人柄で、相手によってわけへだてしなかった。私の父とさえも、-というのは、この気むずかしい医者とうちとけて話す人は親類のなかにも少なかったからだが、会えば談笑して倦まなかった。中学生の頃の私は、この副社長の一家とほとんどつき合っていなかったが、太平洋戦争の後、パリで貧乏暮らしをしていたときに、その娘婿、つまり二代目の副社長と、思いがけなく一晩を過ごしたことがある。下宿に突然手紙がきて、しかじかの日にパリに行くから、よろしくたのむと簡単に書いてあった。飛行場へ行ってみると、彼は鞄持ちの会社員を二人連れてあらわれ、「やあ、どうだい」といった。その気さくな調子が、私にいくさのまえの記憶をよびさまし、大会社の副社長という肩書きを忘れさせた。
海軍少将は、若いときに英国へ留学し、ロンドン軍縮会議の頃大使館附武官をしていたこともあって、英国の文化を尊敬していた。親類の集りでも、英国人の風俗やその歴史について語ることが多かったと思う。30年代後半の日本で海軍の将校が外国人と交際することは少なかったから、どの程度に英語を話したかはわからない。しかしよく英語の本を読んでいた。オークション・ブリッジという遊びを、私たちの家庭にもちこんだのも彼である。
あるときには、巡洋艦の艦長をしていたし、あるときには、揚子江艦隊の司令官で、またあるときには、艦政本部長でもあった。私は子供の頃巡洋艦に招かれたことをよく覚えている。それは県知事になった伯父の権力をはじめてみたときとは全くちがう印象を私にあたえた。県知事には役人がへつらっていた。県庁の役人たちは、ほとんど陰惨な気をおこさせるほど卑屈だった。しかし巡洋艦の水兵たちは少しも卑屈ではなかった。彼らはお世辞をいわず、必要最小限度以外には口をひらかず、しかし敏捷で、正確で、能率的で、艦長の客に対しては申し分なくゆきとどいていた。そこでは人間の組織が機械のように動き、ほとんど美的な感動を与えた。その印象があまりにも強かったので、私はその他のすべてのことを忘れてしまったのかもしれない。その巡洋艦の大きさも、その日誰が一しょに招待されていたかということも、またおそらくは晴れた日の海の色や、飛び交う鷗や、風にひるがえる軍艦旗も。私たちはこの海軍将校を「おじさん」とよび、またあるときには「提督」とよんでいた。提督は太平洋戦争の前後を通じて一種の見識を有し、決してそれをゆずろうとしなかった。それは狂信的な超国家主義は必ず国をほろぼすということである。