フランスでは、当初、労働者と中産階級が連携し、七月王政下での経済的・社会的不平等の是正を目指した。しかしこの協力関係は長続きせず、労働者の不満が高まる中、同年に「六月事件」と呼ばれる大規模な反乱がパリで発生した。この蜂起により市街は戦場と化し、政府は鎮圧のために軍を投入して激しい市街戦が展開され、多くの血が流れた末に政府が勝利を収めたものの、これにより社会的分断はさらに深刻化した。
冒頭に述べた通り、二月革命による影響はフランス国内に留まらず、ドイツ諸邦にも波及した。当時のドイツは、プロイセン王国やオーストリア帝国を中心に多くの領邦国家に分かれ、他方で統一を求める声も高まりつつあった。そこで自由主義者や民族主義者たちは結集し、1848年5月にはフランクフルトで国民議会を開き、統一憲法の制定を試みた。しかし、大ドイツ主義(オーストリアを含む統一)と小ドイツ主義(プロイセン中心の統一)の対立や、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝の地位を拒否したことで、この統一運動は挫折した。しかし、この動きは後のドイツ統一運動の基盤となった。
また、イタリアにおいても1848年の革命は大きな影響を与えた。当時のイタリアは複数の国家に分かれ、また、北部のミラノを中心とするロンバルディアやヴェネツィアを中心とするベネト地方はオーストリア帝国の支配下にあった。これに対し、革命家ジュゼッペ・マッツィーニやジュゼッペ・ガリバルディ等の活動によって統一運動が活発化して、サルディーニャ王カルロ・アルベルトがオーストリアに宣戦布告した。しかしながら、軍事的な敗北によって統一は果たすことは出来なかった。とはいえ、この時期に高まったイタリア統一への熱意は、その後も継続して、1861年にはイタリア王国が成立する道筋を拓いた。
1848年、オーストリア帝国においても革命が勃発して、ウィーンでは学生や市民が蜂起した。この蜂起によって保守的な体制が大きく揺らぎ、長らく帝国を支えてきた首相メッテルニヒが失脚した。また、多民族国家であるオーストリアでは民族問題が顕在化し、ハンガリーではラヨシュ・コシュートの指導のもと独立運動が展開された。しかし、ロシア帝国の介入によって、この運動は鎮圧され、民族問題は解決されないままで残された。
この1848年の革命の波が収束すると、ヨーロッパは一時的な安定を取り戻したが、1853年にクリミア戦争が勃発し、再び均衡が揺らぎ始めた。この戦争は、オスマン帝国の衰退を背景にロシア帝国が南下政策を推進し、それを阻止しようとするイギリス、フランスおよびサルディーニア王国がオスマン帝国を支援して参戦するといった構図であった。
さらに、この戦争はナポレオン戦争以来最大規模の戦争であり、数多くの近代的な戦争技術が導入された初の戦争としても知られている。鉄道や蒸気船、ライフリングの施された銃身が特徴のミニエー銃といった新技術が導入され、戦場で鉄道が物資補給に運用された。この戦争の結果として、敗北したロシア帝国の国際的地位は低下し、オーストリアとの関係も冷却化して、これが後の普墺戦争や普仏戦争にも影響を与えた。また、バルカン半島での地政学的問題を「東方問題」として浮き彫りにし、第一次世界大戦の引き金の一つともなった。
クリミア戦争後、イタリアとドイツの統一運動が大きく進展した。イタリアではサルディーニャ王国が中心となり、ナポレオン三世の支援を得てオーストリアとの戦争を再開して、1861年にイタリア王国が成立した。一方、ドイツではビスマルクが巧みな外交と軍事力を駆使して、普墺戦争と普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立させた。
1848年の革命は、短期的に見ると多くの国で失敗に終わったが、この時の自由主義や民族主義の思想は根強く残り、労働者階級や中産階級の政治的影響力の増大は、後の社会主義運動や民主化運動の基盤を築いたと云える。また、工業化や交通革命が進展し、蒸気機関や鉄道が国際貿易や戦争における物流を大きく変革した。
こうした背景のもと、1848年の革命とその後の出来事は19世紀半ばのヨーロッパにおける転換点となった。自由主義や民族主義の運動は国民国家形成の原動力となり、イタリアやドイツの統一を実現させた。くわえて、クリミア戦争による国際関係の変化が新たな政治情勢を現出させて、大戦が続く20世紀へと進んでいったと云える。
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