2016年5月29日日曜日

20160529 「Obsession」20200419加筆

おかげさまで昨日初めて、当ブログの1日の閲覧者数が1000人に到達しました。

さて、昨日、久しぶりに神保町に行き、古本屋の店頭にて何気なく目に入った「少女怪談」という様々な作家による短編集をパラパラと立ち読みしていますと、期せずして、その中の森村誠一による「青の魔性」という作品を読み入っていました・・。


私は特に「少女が好き」という傾向を持っていませんが、この作品の内容は、それが少女でなくともハナシのスジにはそこまで支障がないと思われます。


ともあれ、その上で、この作品の内容に関しては、何となく「分かる」といった感じを受けました。


そして、当作品冒頭部にて描かれている『憑りつかれる』といった感覚は、物理的現象としては認識し難いものの、良くも悪くも実際に存在するのではないかと思われます。


また、こうしたことを書くと「この人は少しおかしいのではないだろうか・・?」と思われる方々もいらっしゃるのではないかとも思われます・・(笑)。


しかしながら一方で、それはプラスな意味合いでは、自分以外の誰かから『元気をもらう』あるいは『癒される』などと普通に言い表される現象の逆をも含めたものであると考えていただければ、多少は納得していただけるのではないでしょうか?


また、私個人の経験に即して考えてみますと、良い意味でのそれは、私の九州在住時においても生じていたのではないかと考えています・・。


そして、現在の私は、まさに、そのことにより、これまでブログ記事の作成を継続することが出来、さらには生きている(生かされている)のではないかとも思われるのです。

いや、あるいはまた、そうした現象をどうにか客体化・対象化して認識するために、これまで一連のブログ記事作成を行っているのではないかとも思われます・・(笑)。

そして、こうした現象をマクロレベルにて考え、さらに歴史を遡上して考えてみますと、我が国が倭国と呼ばれた時代、女王が統治する邪馬台国というクニが、九州あるいは畿内の何れかに存在していたことが実感を以って感覚的にも理解・認識できるのではないかとも思われるのです・・。


その意味において、以前数回当ブログにて引用したローレンス・ヴァン・デル・ポスト「The seed and the sower」に記されている我が国の特質についての記述は、かなり興味深いものであると云えます。


とはいえ、そうであっても、こうしたことは畢竟、単なる思い込み・迷信の類であると批判される方々も少なからずいらっしゃるのではないかとも予想されます。


そして、そのような批判がなされた場合、私は『ええ、たしかにそうであるかもしれませんが、しかし、そこで私と同様な経験を彼の地ですることになれば、私以上に敬虔にそうしたことを信じるようになるかもしれませんよ・・。』と返答とすると思います・・(笑)。


ともあれ、この『憑りつかれる』と表現される内容も前述のとおり様々であり、それが生じた時の自身の心持、就中、邪気の有無がかなり精確に反映され、後になり自身に返ってくるのではないかと思われるのです・・。


そして、そういった、いわば単純且つ原始的な観念こそが様々な神話そして道徳的意味合いを持つ神話、さらには地域、国レベルの倫理、道徳観念の基礎あるいは枠組みへと変化そして精製されてゆくのではないでしょうか?


しかし、それでも現在記しているこの記事は、実際問題として、幾分迷信的ともとられ、また自身の今後、保身においても何かしらおかしな影響をおよぼしかねないと考え、投稿することを多少躊躇しておりましたが、それでも、どうしたわけか、この記事を投稿することにしました・・(笑)。


『他方では女友達のいるときの祖父を、理解していなかったにしても、理解するかもしれないと予感していたにすぎない。予感が私のなかで実現したのは、はるか後になって、私自身がひとりの女の眼のなかにすべてをみ、その一刻が世界の全体よりも貴重だと思われるような瞬間を、経験した後でのことである。その経験は、事の善悪について語ることを、全く無意味にみせる・・』
岩波書店刊 加藤周一著「羊の歌」-わが回想ーp.9より抜粋
ISBN-10: 4004150965
ISBN-13: 978-4004150961


さきの熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの早急な復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

また、ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

皆様のおかげでここまで書き続けることが出来ております。
そして最後にゲーテ曰く『迷信的であることは詩作の妨げにはならない』しかしながら、私は詩人ではありません・・(笑)。






          




加藤周一著「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房刊pp.87‐89より抜粋20160528

昨日夕刻来の広島にて生じた出来事は以下の抜粋引用部を私に想起させた。

「無条件降伏のその日から、万事が変わったことは周知のとおりである。
占領は夏にはじまったから、開襟シャツの司令官がフロックコートの天皇と並んで写真を撮り、それを新聞雑誌に発表した。米国の営利雑誌はその下に註釈して「もと神」と書いたのである。

日本側では註釈を翻訳する時に、もとの表現の辛辣な諧謔味をとり除いた。

そこには、開襟シャツの大柄な外国人とその傍に立っている昨日までの「御真影」とを対照させた写真に対する、日本側の困惑がよく表れていた。しかし、おそらく天皇のために怒る者は殆どいなかったし、昔の臣民の中で、何等かの激しい反撥を表明する者もいなかった。

反応はおどろく程穏やかであった、しかしそれは写真の効果が浅かったということではけっしてない。おそらく天皇の「神性」を否定しようと考えた占領軍が予期したよりも、その影響は大きかったのである。余りに深い反応は、直ちに表面に出てくることができない。

対照の妙にこっけい味を感じる余裕のないことはいうまでもないとして、怒りや反撥をおぼえるよりも、日本側はその写真が発表されるようになった事態の意味を理解するために努力しなければならなかったのである。

永遠なるものは何もないということ、人間以外の何かがわれわれの世界を保障しているのではないということ、したがって「すべての文明はほろびる」ものであり、況や極東の島国の秩序はいつでも変わり得るものにすぎないということ、変われば前の世界に通じていたことが、後の世界では通じなくなるだろうということ、要するに自分達の永遠だと信じてきた世界の相対性を理解する急な必要があったのだ。

しかしこの場合に、世界を変えることではなく世界のかわることが問題であったということほど、決定的なことはない。

私は敗戦による一種の革命が唯外部から起こり、まったく内側から支えられていなかったというつもりはない。しかし大部分の国民にとって、外部からの変化として受けとられたという事実を強調しておく必要があると考える。

何故なら、歴史的意識は、おそらく一つの世界をその内側からくずし、別の世界を築きあげようとする経験の蓄積を通じてしか獲得されないものだろうからである。


その時現在の権威は来たるべき権威によって否定される。現在の世界の中心は、次の世界の中心が発見され、ひそかに強められ、その影響の範囲を拡大して後に、はじめて除かれる。


1789年に旧制度は仏国民の心のなかで死んでいたのだ。しかしそれは1945年の日本の状況ではなかった。来たるべき権威は予想されず、次の世界の精神的中心が何処にあるのかわからないうちに、永遠と信じられた、または仮定されていたーしかし、どういう違いがその間にあるのだろうか、ー旧来の権威、秩序、生活の規準となるべき権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。占領軍が期待し、また国内の民主的勢力が望んだのは、天皇の絶対的権威が否定されることであった。しかし実際に国民の大多数の中で否定されたのは、天皇の権威ではなく、権威そのものであった、歴史的相対主義のかわりに、現在目の前のどういう価値も信用しないという現象が起こるのは、当然の成り行きであったろう。

民主主義の一面は、敗戦後十年の間に、深く抜き難い根を下ろしていったが、それは一面においてであり、具体的な個々の場合においてであって、また、おそらく選良の多数には、未だそういうものとしてしか民主主義は受け入れられていない。


むしろ逆に天皇を中心とした世界の崩壊が作り出した権威一般に対する不信用の態度は、民主主義そのものにも向けられていると考えなければならない。事がそのように運んだ理由は、むろん敗戦の事情だけではなく、また民主主義の原理そのものとも関連し、殊にその原理が現在世界で遭遇している大きな困難、すなわち「二つの民主主義」という言葉によって要約される矛盾と関連している。


「二つの民主主義」の対立は、いずれかの形での民主主義の経験の浅い国ではーそれは何も日本に限らないがー当然のことながら、文化的伝統と国家的経験の基準からよりも、純粋にイデオロギー的な対立として扱われる傾向がある。

しかしそれがイデオロギー的対立として扱われる限り、第一に、解決は困難であり、したがって第二に、議論が煩雑とならざるをえない。その結果は、第三に、一般の知的大衆が民主主義に対するほんとうの関心を失うのである。いわゆる「敗戦の虚脱」の根本的条件は今でも変わっていないと思われる。」

言葉と戦車を見すえて
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380
加藤周一