2022年8月25日木曜日

20220825 創造の経路と、それに付随する価値について・・【見解の鋳型】

これまで(どうにか)7年以上、ブログ記事の作成を継続してはきましたが、それまでの経緯で、自分の文体を獲得出来たかについては、未だに実感がありません。毎回の記事作成に際しては、やはり面倒に思われるものです・・。これが、速やかに、滑らかに作成出来るのであれば、それに越したことはないのでしょうが、しかし、これまでの自分の経験に照らしてみますと、そのようにして作成出来たと思しき記事はありません。他方で、書籍からの引用記事の場合は、予め、いくつかの興味深いと思われる記述がある著作があり、そして「本日はオリジナルの記事を作成するのは困難かな。」と感じられ、且つ「新規の投稿はしておいた方が良い」と思われる日に、そうした著作ストックの中から、その日に適していると思われる記述を検討し、そして、引用記事として作成しています。

そうした書籍からの引用記事に関しては、現時点において、その候補が100近くあると思われますので、今後、そうした引用記事を集中的に作成する期間を設けても良いのではないかとも思われます。しかし、私の場合、未だに自分の作成する文章に対する十全な自信がないことからか、たとえ断続的ではあれ、自らによる文章作成を継続しておかないと不安になってきてしまうのです。あるいは、こうした状態は強迫性障害に近いのかもしれませんが、しかし、それが除去されて、そして、めでたくブログ記事の作成を不安感ナシに止めることが自分にとって良いことであるのかと考えますと、こうした、ある種の「内面の葛藤・不調和」につき合えるだけつき合ってみることにより得られるものも、少なからずあるのではないかと思われるのです・・。

対して、当初から合理的な経路選択によって得られた、辿り着いたものとは、往々にして、さきの葛藤・不調和を経たものと比べて、自身の中での払われる価値が低くなるように思われます。しかし、そのように考えてみますと、概して創造には、そうした性質があるのかもしれません。つまり、さまざまな思考錯誤を重ねて時間をかけて作成、創造されたものと、既存要素をわずかに改変して組み合わせ、あるいは組み合わせた後で改変したものとを比較しますと、さまざまな程度の相違はあるものの、前者の方がより普遍的な意味での創造と云え、そしてまた時間的な意味での普遍性を持つ可能性が高くなるのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、こうしたことは、各人各様で価値観が異なることから、普遍的な数値データに基づく結果そして傾向などを見出すことは難しいのかもしれませんが、それでも最終的には、さきの「葛藤・不調和を経た創造の方が、より普遍的な意味での価値があるのではないか?」から更に進んだ言語にて説明可能な見解に至ることが出来るのように思われるのです。

そして、そこで重要であると思われるのが、そうした見解の鋳型ともなるような物語としての神話や小説などです。おそらく、原初期の頃から現在に至るまでの人文社会科学全般の持つ普遍的な価値もまた、そうしたところにあるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









20220824 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「平民宰相・原敬」pp.139-141より抜粋

岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「平民宰相・原敬」pp.139-141より抜粋
ISBN-10 : 4003812654
ISBN-13 : 978-4003812655

原敬は安政三年(1856年)九月盛岡城外に生まれた。当時健在であった祖父の原直記政元は盛岡藩の家老加判。従って、家柄は上級武士層に属する。彼は少年時代を幕末の動乱期にすごし、戊辰戦争の起ったときには十二歳であった。この戦争において盛岡藩は東北の諸藩とともに官軍に抗したが、「朝敵」の烙印を押された上で一敗地に塗れる悲運に遭遇した。

 維新後、藩閥政治が樹立されて、薩長両藩の出身者はわが世の春を誇る時代となった。陸奥宗光(紀州出身)の言葉を借りれば、「往昔平氏の盛時、世人之を目して平氏の族に非ざる者は人間に非ずといへり。今や薩長の人に非らざれば、殆ど人間に非ざる者の如し」という世の中になった。そして、非藩閥の身に生まれた幾多有為の人材はこの藩閥政治の陰に空しく埋もれて、朽果てて行った。そして、戊辰戦争の敗北者である東北諸藩の出身者のごときは、薩長人から「白河以北一山百文」と嘲弄、侮蔑された。

 このような中で、若き原敬の前途には光明は乏しくみえた。負け嫌いで覇気に溢れ、そして、敵・味方を峻別して行動する性向の持主であった彼にとって、このみじめな境地の中で味わったさまざまの屈辱的な経験は正にその骨身に徹した。それは原は生涯到底忘れることができなかった。たとえば、彼は一山または逸山と号した。それは「白河以北」云々の句から取ったものである。もとより自嘲ではない。この二字には昂然たる反撥の気概がこめられていたのであった。また別の例を挙げよう。幾月はいつか流れて、大正三年に迎えた。当時原は第一次山本(権兵衛)内閣の内相であり、大正天皇の即位式をひかえて大礼使長官を兼ねていた。同年二月六日の日記に彼は記している。「午後大礼使の会議に出席して種々の協議をなしたるが、御即位礼に使用せらるる幡の理由書中に維新の際東征に使用せられたりとか、奥羽出征のとき総督に下附せられたる錦旗に倣へりと云ふ文字あり、一視同仁の皇恩に浴し居る今日に於て恰も外征に於けるが如き語句を使用する事は不穏当なりと認め、之を刪除せしめたり」。また、大正六年は戊辰戦争からちょうど五〇年目に当たった。当時原は政友会総裁であった。この年、旧諸藩筋ではそれぞれ慰霊の祭典が執り行われた。旧盛岡藩関係でも寄り寄りその計画があったが、費用の問題で行詰った。そのことをきいたとき、彼は率先金を寄付し、この金を基にして祭典を行うよう盛岡市当局に斡旋方を依頼した。その結果、同地の報恩寺において旧盛岡藩士戊辰殉難者五十年忌の法会が行われた。当日彼はその席に列した。そして、みずから起草した祭文を朗読した。それにいう、「同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭本日を以て挙行せらる。顧みるに昔日も亦今日の如く国民誰か朝廷に弓引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此事天下に明かなり、諸子以て瞑すべし、余偶々郷に在り、此祭典に列するの栄を荷ふ、乃ち赤誠を披露して諸子の霊に告ぐ、大正六年九月八日 旧藩の一人 原敬」。彼はその日の日記に、この祭文を書き入れ、付記して「他には如何なる評あらんも知れざれども、余の観念を率直に告白したるなり」としている。そして、その折彼は「焚く香の烟のみだれや秋の風」の一句に深い感慨を託した。