A「本日の首都圏は一日中グズついた天候でした・・。
また、気温も上がらず、あまり自身の活性も上がらなかったように思います・・。
さて、先日投稿したブログ記事にて「ネガティブ・ケイパビリティ―」について記しましたが、こうしたものとは、まさに本日のようなあまり活性の上がらない時に、その価値が認められるのかもしれません・・。
自身の活性の上がっている時とは、おそらく他の多くの方々もまた、活性が上がり、ブログ記事の作成を含め、何かしらの行為をするのに適していると考えられるからです・・。
あるいは、そうした活性が上がるのが他の多くの方々と異なる場合もまたあるかもしれませんが、一般的に考えてみれば、前者のようになることが多いのではないかと思われます・・。
しかし、そうであるからといって「ネガティブ・ケイパビリティ―」のみが重要である考えるのはおそらく間違いであり、さらにその深層、基層においては、何らかの「積極性」「能動性」がなければ、さまざまなことを継続することは困難であるものと考えます・・。
あるいは、当初はイヤイヤであっても、何かしらの行為を継続することを通じ、自身のより根本(深層、基層)の性質に適した「何か」を発見することが出来るのかもしれません・・。
さらにまた、それは消極的努力の継続により、自身の深層、基層にある積極性、能動性に働きかける何らかの「鉱脈」を見つけるに至るのかもしれません・・。
そして、そのように考えてみますと、消極的努力と積極性、能動性では何れがニワトリ・タマゴの先行するものであるかと考えるに至りますが、私見では、積極性、能動性の方が、各個人の内面奥に(当初より先行して)存在し、それを探し当てるための行為の継続に必要な性質が消極的な性質を持つ「ネガティブ・ケイパビリティ―」といったものではないかと考えます・・。
また、そのように考えることにより、これまでどうにか継続的に作成してきたブログ記事のことが腑に落ちる、納得することができるのです・・。
もっとも、これはあくまでも私見であり、他の方々の場合においてはまた、状況が異なることもまたあろうかとは思いますが・・。
しかしながらハナシを自身のことに戻し続けますと、自身行為の継続に必要な「ネガティブ・ケイパビリティ―」とは、ブログ開始当初より一定したものではなく、それは(間違いなく)ブログ記事閲覧者の皆様がいたことにより、保持あるいは増加することが出来たといえます・・。
つまり、全くの孤立無援の状況の中で、消極的な努力(ブログ記事の作成)を継続することは、自身にとって困難もしくは「無理なハナシ」であり、どうした経緯によるものか、読んでくださっている皆様に助けられて継続することが出来ていると表して良いと思われます・・(笑)。
また、考えてみますと、こうしたことは何もブログ記事作成に限定されるものでもなく、世の様々な行為において、こうした背景とは遍く存在するのではなかろうかと思われるのです・・。
しかし、そうであるからといって、それに寄り添うのではなく、寄り掛かることは、如何なものかと考えますので、今後とりあえず500記事までどうにか記事を作成し続けたいと考えております・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部そして先日の福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年11月27日日曜日
20161126 着想が訪れない、浮かばない時には・・鹿児島からの帰郷時の出来事
本日のブログ記事投稿により投稿総記事数が491となり、目標とする500記事まで残り10記事を切ることになります。
これに対し特に感慨らしきものはなく、今後もしばらく、この調子にて投稿し続けるつもりです・・。
とはいえ、本日もまた作成記事の主題は決まらない状態にて作成をはじめ、今現在何を書こうかと、その着想が訪れるのを待っている次第、状態です・・(苦笑)。
しかし、着想を待つとはいっても、確実に着想が訪れてくれるわけでもなく、特に本日に関しては、その着想がなかなか湧かず、訪れず、多少困った状態であるといえます・・(苦笑)。
こうした状態においてこれまで採ってきた手段とは、書籍からの抜粋引用であるのですが、500記事到達が目前にあるといっても良い現状において、その手段を用いるのも、如何なものであるかと考え、今現在そうした思いを記している次第です・・。
また、こうした自身の意識の状態、流れを記すことにより記事の着想が多少は湧く、訪れ易くはなるのでしょうか・・?
これまでのところ、こうしたことをある程度記していると、何かしらの記事主題に至る着想が自然に(この自然というものが実に曖昧であり、現在のところ、それ(自然およびそのメカニズム・作用機序)を言語化することは難しい)湧く、訪れるのですが、その自然なるものを言語にて記す、語ることを試みることにより、あたかも逃げ水のように、その(着想の)光明が遠ざかっていくものであるのかもしれません・・。
しかし、そうであるとしても、ここで言語による表出を諦めてしまうと、もとの木阿弥であり、逆にそうであるからこそ、ここで踏みとどまり、言語による表出の継続を試みる必要・重要性性があるのではないかと思われます・・。
そして、ここにブログ記事作成の継続のある程度重要なカギがあるのではないでしょうか・・?
もちろん、作成記事の着想を得るとは、何らかの主題、ネタが自身の中に言語化可能な程度に顕現、明示されることであるのですが、あるいはそれと同時に、現在のような着想が思い浮かばない状態においては、そうした意識の状態、流れを記すことによってもまた、さきに述べた着想とは「異なった経路」ではあるものの、結果的には記事の主題を得たのと、ほぼ同様の状態となるのではないかと思われます・・。
とはいえ、そうした状態にて記した文章が果たしてある程度(この概念も曖昧ですが)の同意を得ることが出来るかどうかとは、また別問題ではあるのですが・・(苦笑)。
そうしますと、これはどちらかというと、単に内心の満足を得るための方便であると採ることも出来ますが・・(苦笑)。
しかしながら、そもそも、これまでに作成したブログ記事とは、以前、周囲の方々に勧められはしたものの、その作成および継続とは、全面的に自身の能動性に委ねられたものであり、何らの義務によるものではありません・・。
それ故、今回の手法により作成された記事もまた、それが内心の満足を得るためのものであったとしても、それは本質的には以前の手法により作成されたものと、そう大きな相違はないのではないかとも考えられるのです・・。
そして、ここまで書いていて不図思い出したことは、その脈絡がよく分かりませんが以下のことです・・。
2013年9月に自動車(軽・鹿児島ナンバー)にて鹿児島より帰郷の折、東京に入り305号線・明治通りにて原宿を抜け走行していると、左側に東郷神社が見えたため、速度を少し緩め、神社を向いて軽く会釈をしたところ、後続の外国製SUV車にけたたましくクラクションを鳴らされ、追い抜かれました・・。
その直後、私は何を思ったか、このSUV車を追いかけ、追いつき窓を開け顔を出し、思い切り運転席の方を睨み「コラーッ!」と叫んでおりました・・。
現在考えてみますと、おそろしくバカなことをしたものであり、また、ここにその内容を記すのも(大分)気が引けるのですが、その意味において、当時の私とは、やはり多少おかしかったのではないかと思います・・(苦笑)。
(また、そうであるからといって現在はおかしくないとは言い切れないが・・(苦笑)。)
とはいえ、今現在なお、そうした気持ち自体とは、内心にて持つ限りにおいては、そこまで悪いものではないとも考えますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部そして先日の福島県周辺にて発生した大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
これに対し特に感慨らしきものはなく、今後もしばらく、この調子にて投稿し続けるつもりです・・。
とはいえ、本日もまた作成記事の主題は決まらない状態にて作成をはじめ、今現在何を書こうかと、その着想が訪れるのを待っている次第、状態です・・(苦笑)。
しかし、着想を待つとはいっても、確実に着想が訪れてくれるわけでもなく、特に本日に関しては、その着想がなかなか湧かず、訪れず、多少困った状態であるといえます・・(苦笑)。
こうした状態においてこれまで採ってきた手段とは、書籍からの抜粋引用であるのですが、500記事到達が目前にあるといっても良い現状において、その手段を用いるのも、如何なものであるかと考え、今現在そうした思いを記している次第です・・。
また、こうした自身の意識の状態、流れを記すことにより記事の着想が多少は湧く、訪れ易くはなるのでしょうか・・?
これまでのところ、こうしたことをある程度記していると、何かしらの記事主題に至る着想が自然に(この自然というものが実に曖昧であり、現在のところ、それ(自然およびそのメカニズム・作用機序)を言語化することは難しい)湧く、訪れるのですが、その自然なるものを言語にて記す、語ることを試みることにより、あたかも逃げ水のように、その(着想の)光明が遠ざかっていくものであるのかもしれません・・。
しかし、そうであるとしても、ここで言語による表出を諦めてしまうと、もとの木阿弥であり、逆にそうであるからこそ、ここで踏みとどまり、言語による表出の継続を試みる必要・重要性性があるのではないかと思われます・・。
そして、ここにブログ記事作成の継続のある程度重要なカギがあるのではないでしょうか・・?
もちろん、作成記事の着想を得るとは、何らかの主題、ネタが自身の中に言語化可能な程度に顕現、明示されることであるのですが、あるいはそれと同時に、現在のような着想が思い浮かばない状態においては、そうした意識の状態、流れを記すことによってもまた、さきに述べた着想とは「異なった経路」ではあるものの、結果的には記事の主題を得たのと、ほぼ同様の状態となるのではないかと思われます・・。
とはいえ、そうした状態にて記した文章が果たしてある程度(この概念も曖昧ですが)の同意を得ることが出来るかどうかとは、また別問題ではあるのですが・・(苦笑)。
そうしますと、これはどちらかというと、単に内心の満足を得るための方便であると採ることも出来ますが・・(苦笑)。
しかしながら、そもそも、これまでに作成したブログ記事とは、以前、周囲の方々に勧められはしたものの、その作成および継続とは、全面的に自身の能動性に委ねられたものであり、何らの義務によるものではありません・・。
それ故、今回の手法により作成された記事もまた、それが内心の満足を得るためのものであったとしても、それは本質的には以前の手法により作成されたものと、そう大きな相違はないのではないかとも考えられるのです・・。
そして、ここまで書いていて不図思い出したことは、その脈絡がよく分かりませんが以下のことです・・。
2013年9月に自動車(軽・鹿児島ナンバー)にて鹿児島より帰郷の折、東京に入り305号線・明治通りにて原宿を抜け走行していると、左側に東郷神社が見えたため、速度を少し緩め、神社を向いて軽く会釈をしたところ、後続の外国製SUV車にけたたましくクラクションを鳴らされ、追い抜かれました・・。
その直後、私は何を思ったか、このSUV車を追いかけ、追いつき窓を開け顔を出し、思い切り運転席の方を睨み「コラーッ!」と叫んでおりました・・。
現在考えてみますと、おそろしくバカなことをしたものであり、また、ここにその内容を記すのも(大分)気が引けるのですが、その意味において、当時の私とは、やはり多少おかしかったのではないかと思います・・(苦笑)。
(また、そうであるからといって現在はおかしくないとは言い切れないが・・(苦笑)。)
とはいえ、今現在なお、そうした気持ち自体とは、内心にて持つ限りにおいては、そこまで悪いものではないとも考えますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部そして先日の福島県周辺にて発生した大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
登録:
投稿 (Atom)