2021年8月17日火曜日

20210817 「20170419 具象よりも抽象の方が時としてより写実的・・観念的?【600記事到達】」の加筆修正

以前、当ブログに述べました通り、本格的に暖かくなる前に600記事に到達することができました。本日からしばらくの間、記事作成を休もうと考えていましたが、PCの前に座り、閲覧者数や読まれた記事などを眺めますと、不思議なことに、また何か書いてみたいと思い始めるのです・・(苦笑)。

さて、以前に何度かブログ記事の題材とした「銅鐸」に関してですが、和歌山県を主とする紀伊半島での銅鐸の出土傾向は、比較的大きな河川があり、水稲耕作の可耕面積が広く、人口が多かったと考えられる半島北部(紀北地域)に数が少なく、また、その様式は比較的古い、小・中型(~50㎝程度)のものが多いと云えます。それが半島を南下するに伴い、紀伊半島の地形からも想像出来るように、河川流域の可耕面積は狭小化し、人口も紀北地域ほどに多いとは考えにくい中・南紀地域においては、新様式の大型(100㎝前後)のものが数多く出土しています。

銅鐸をはじめ青銅器が我が国に齎された紀元前2~3世紀の弥生時代中期頃は、鋳造技術も発展途上にあり、初期に作成された銅鐸の鋳型は石を彫り、削ったものであり、そのため、大型のものは作成が困難でしたが、その後、鋳型材に砂を用いて作成するようになってからは随意に大型のものも鋳造することが可能になり、また、その作成数も多くなっていきました。

こうした技術発展の様相と、さきに述べた紀伊半島における地域毎の銅鐸出土傾向とを勘案してみますと、当地における銅鐸を祀る文化を持つ水稲耕作民集団の伝播(開拓・入植)様相の概要を理解出来るのではないかと思われます。また、さきにも述べましたが、初期の銅鐸は石製の鋳型を用いていたことから、同一の鋳型にて複数の銅鐸が作成されることが多々あり、そうした同一鋳型にて作成された銅鐸が出土した紀伊半島とは異なった地域にて出土していることなども加味して検討してみますと、その当時、いわば統一に向かう過程にある我が国様相の一面をも理解することが出来るのではないかとも思われます。

そして、これまでに述べたことを博物館や書籍掲載での写真がある、出土銅鐸全てについて、ある程度行って見慣れてきますと、大体は、あるいは間違っていても、その理由を説明できる程度には、個々銅鐸の出土地域および作成年代などに見当を付けることが出来るようにはなると思われます。

さらに、こうしたことは銅鐸のみならず石器、土器、墳墓、他の青銅製祭器(銅鏡、銅矛、銅剣、銅戈など)、古墳造営様式、あるいはその他の生活道具などにも同様に応用することが可能であると思われます。

そうした見方にある程度慣れてきますと、更なる興味対象へと意識の変化が生じ、具体的に存在する遺物から、その地域、国などの性質、特徴などといった観念的な要素への興味に至ることが少なからずあるのではないかと思われます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


順天堂大学保健医療学部

順天堂大学医療科学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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