pp.128-131より抜粋
ISBN-13 : 978-4087607383
だが、ソ連軍と戦った人びとにとっては、アフガン戦争には別の意味があった。西欧のある研究者が述べているが、それは「民族主義や社会主義の基準ではなく」、イスラムの行動基準にのっとっての、外国勢力にたいして成功した初めての抵抗だった。それはジハード(聖戦)として戦われ、イスラムの自信と勢力が飛躍的に高まることになった。この戦争がイスラム世界に与えた衝撃は、1905年に日本がロシアに勝ったときに東洋世界に与えた衝撃にも劣らぬものだった。西欧は自由世界の勝利と思ったのだが、イスラム教徒はイスラムの勝利だと考えたのである。
たしかに、ソ連に勝つためにはアメリカのドルとミサイルが不可欠だった。だが、もう一つ欠かせなかったのは、イスラムが力をあわせて戦うことだった。さまざまな政府や集団が、率先してソ連と戦い、自分たちの利益にそった勝利を勝ちとろうと努力した。この戦争にたいするイスラム教徒からの経済的援助は、主にサウジアラビアが提供した。1984年から86年のあいだに、サウジアラビアは抵抗勢力に5億2500万ドルの援助をした。1989年には合計で必要な7億1500万ドルの61%、つまり4億3600万ドルを負担するのに同意し、残りはアメリカが提供することになった。1993年には、サウジアラビアは1億9300万ドルをアフガニスタン政府に援助した。この戦争を通じて、サウジアラビアが提供した資金援助の総額は少なくとも30億ドルに達したが、実際の金額はたぶんもっと多かっただろう。それにたいして、アメリカが支出したのは33億ドルだった。この戦闘中に、約2万5000人の志願兵が、他のイスラム諸国、とくにアラブ諸国からやってきて戦闘に参加した。これらの志願兵は主としてヨルダンで志願し、パキスタンの陸海空の諜報機関で訓練を受けた。パキスタンはさらに、抵抗勢力に不可欠な国外の基地と、兵站機能やその他のサービスを提供した。さらにパキスタンはアメリカの資金の分配にたずさわり、意図的にこの資金の75パーセントを原理主義的なイスラム集団に与え、総額の50パーセントがグルブッディン・ヘクマティアルが率いる最も過激なスンニ派原理主義の派閥に流れるよう手配した。ソ連軍と戦っていながらも、参戦したアラブ人は反西欧的な態度をつらぬき、西欧の人道主義的な援助機関を不道徳で、イスラムを破壊しようとするものだと非難した。ソ連はついに敗れたが、それには三つの要因があり、それにたいして効果的に対処できなかったのである。その三つの要因とは、アメリカの技術、サウジアラビアの資金、そしてイスラムの厖大な人口と宗教的な熱意である。
この戦争のあとに残ったものは、イスラム教徒の不気味な連合で、すべての非イスラム教徒軍にたいしてイスラムの大義を主張しようとしていた。また、技術をもつ経験にとんだ戦士、駐屯地、訓練施設、兵站設備、全イスラムを結んで入念につくられた個人と組織のネットワークも残された。また大量の兵器が残され、300基から500基のスティンガー・ミサイルの所在が不明である。そして、とくに重要なのは、自分たちが成しとげたことから生まれる力と自信にみちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった。1994年にアメリカのある当局者が述べたように、アフガン戦争の志願兵が「ジハードに参戦する資格は、宗教的にも政治的にも非の打ちどころがない。彼らは世界の超大国の一つを破り、他の一つに抵抗しようとしている」のだ。