2026年4月13日月曜日

20260413 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」 pp.54-57より抜粋

 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」 
pp.54-57より抜粋
ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

 いったいどうして茶がヨーロッパのなかでも、とくにイギリス人の間でひどく愛好され、国民的飲料として急速に普及するようになるのであろうか。日本人なら誰でも不思議に思って一度は話題にするテーマであろう。しかしこの問題はそう簡単に答えの出る問題ではない。社会的・経済的・文化的要因が複雑に絡んでいて、短絡的なアプローチではとても解答が見出せそうにない。たとえば茶がポピュラーな飲料になる以前のイギリスでは、人びとはいったい何を飲んでいたのか。それにしてもイギリスに茶が受け入れられた文化的基盤はいったい何であったのか。またほんとうに茶は何の抵抗もなくスムーズに受け入れられたのかどうか。また何らかの文化的摩擦があったとすれば、そうした摩擦や抵抗を排除して、国民的飲料として定着せしめたものは何であるのか。茶には、非アルコール的競合飲料としてコーヒー、チョコレートであったが、どうして茶がイギリスでは他を抑えて優位を占めるにいたるのであろうかなど、少なくともこうした問題を考慮にいれておく必要があるだろう。

 ではまず、茶が入ってくるまえに、イギリス人は日常の飲み物として何を飲んでいたのであろうか。常民生活の記録が乏しいのでよくわからないが、主として水および自家製のエールを飲んでいたのではないかと思われる。イギリスの水は軟水で、大陸の水とちがって飲料に適していた。試みに、いまでも大陸の水でティを飲んでもティの味も香りもない。やはりティはイギリスで飲むのがいちばんおいしい。またエールというのは麦芽とイーストと水だけで醸造したもので、ビールの一種といってよいが、ビールとちがうのはホップを使っていないことである。イギリスへビールが入ってきたのは十五世紀のことで、フランダースから導入された。しかし十七世紀末までは、上流階級でも日常の飲み物といえばビールよりかエールであった。農民のあいだでは自家製のエールが飲まれていたが、農村共同体の祭りや結婚式のときに出るのもエールと決まっていた。ワインはまったくなかったわけではないが、フランスなどからの輸入ものが主であったし、またリンゴからつくるサイダーもあったが、いずれもイギリスでは上流階級や特別の行事のときの飲料で、庶民の日常の飲料ではなかった。もっとも十八世紀になると、ジンや安ものの輸入ワインが庶民のあいだで広く飲まれるようになるが、ともかくイギリスはフランスや他のヨーロッパ諸国と比べると、水は別として、もっとも飲み物の貧弱な国であったといってよい。だからフランス、イタリア、スペインといった地中海のワイン文化圏では、茶はほとんど割り込む余地がなかったのに、伝統的飲料がもっとも貧弱であったイギリスに茶が入りやすかったということができる。

 なお、イギリスに茶が受け入れられた背景として、水が適していたことのほかに、土着の「代用茶」があったことは注意してよい。古くから知られる煎汁plant infusionがそれで、現在でも農村で用いられている。現在これをティとよんでいるが、これは本来のティではない。十六世紀にイギリスから大西洋を越えてアメリカにもたらされた薬用茶もセイジ・ティ(サルビアの葉を煎じたもの)があるが、それが伝統的な煎汁の一例である。その他ハートニーの「イギリスの食べ物」(1951年)があげているイギリス古来の代用茶には、Catnip tea(いぬはっか茶。これは風に効く)、Hyssop tea(ヒソップ茶。ヒソップはッ香りのよい刺激性の植物で、むかしその枝を清めの儀式に用いた。花も葉もティに使用され、熱湯を注いで二十分程浸し、蜂蜜を入れて飲むと、咳によく効くといわれる)、Raspberryleaf tea (木いちごの葉の茶。これを煎じてミルクと砂糖で飲む。またレモンと砂糖で飲んでもよい。妊娠の末期にとくに良いといわれる)、Black-currant tea(黒すぐりの茶。蜂蜜で飲めばのどや咳によい)などがあった。もちろんここに記した飲み方は現在のそれであって、茶が入ってくる前には砂糖の代りに蜂蜜が用いられたであろうし、飲み方がちがっていたであろう。こうした代用茶の基盤の上に、中国茶が入ってきたのであった。

 代用茶がどの程度広く普及していたかどうかは疑問があるにしても、東洋的な茶の出し方を知らず、ただ煎じたらよいと思っていたものも多かった。

 たとえば茶がアメリカ植民地に導入された十七世紀末から十八世紀はじめにおいてニューイングランドでは茶の葉を長い時間かけて苦い煎汁になるまで煮つめ、その煎汁をミルクも砂糖も入れないで飲んでいたのである。このような茶の飲み方はイギリスからもちこまれたもので、イギリス人のあいだでは茶も煎じて飲むくすりであると考えられていた。しかし奇妙なことには、その煎汁の出がらしの葉に塩をまぶし、バターをつけて食べていたことである。もっと傑作なのは、ニューイングランドの数都市では、煎汁を捨てて、出がらしの葉だけを食べていた。

20260412 中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく」 pp.212-215より抜粋

中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく
pp.212-215より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121028759
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121028754

 一般的に磨崖仏とは石仏の一種であり、自然の懸崖に露出した岩や岩壁に仏像を彫刻したものをいうが、仏像に限らず、梵字などが刻まれた「種子磨崖」、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれた「名号磨崖」、五輪塔などが刻まれた磨崖や石窟内の壁に刻まれた石窟仏などを含めた総称として用いられている。

 磨崖仏は、東北地方の福島県や近畿地方の滋賀県・奈良県・京都府、九州地方、特に大分県に偏在する。大分県は「磨崖仏の宝庫」といわれる磨崖仏密集地域であり、現在もその所在が知られるものだけでも八三ヵ所、総数約四〇〇体にのぼる尊像が確認され、一説に全国総数の八割を占めているといわれている。

 筆者が調査した大分県における磨崖仏分布を図8-27に示す、未調査の磨崖仏がまだ相当数あるものの、そのほとんどに湧水が存在する。湧水の存在する割合は、調査済みのものだけを対象とすると、九四%にも達する。

磨崖仏と阿蘇溶結凝灰岩
 磨崖仏が彫られている溶結凝灰岩は、水によって風化されやすい特徴を持っているので、文化財保護の観点から見ると湧水の存在は好ましくないという。にもかかわらず大分県の大野川流域湧水近くに多数の磨崖仏が見られるのはなぜだろう。

 磨崖仏は自然の岩石を素材としているため、その造形は石材からくる材質的制約を受ける。特に岩質の硬さやきめの細かさによって、彫られる仏像も異なってくる。大分県中南部に所在する磨崖仏の多くは、阿蘇火山灰の堆積層である溶結凝灰岩の緻密で軟らかい岩肌に刻まれており、もろく割れやすいという欠点がある。溶結凝灰岩はカルデラ式火山に特有の地質に見られ、九州では阿蘇火山や桜島火山が有名である。

 大分県、特に大野川流域には九万年前に噴火した阿蘇山の噴出物である溶結凝灰岩が堆積している。一般的に溶結凝灰岩は岩石内の空隙が大きく、水が浸潤しやすいために、非常によい帯水層(水が貯えられる地層のこと)となって豊富な地下水を供給する。したがって、溶結凝灰岩のある地域には地下水や湧水が豊富に存在するのは自明のことであり、事実、大分県の竹田湧水群はよく知られた湧水地帯である。また、凝灰岩は岩石の中では非常に柔らかい岩石に分類され、かつては建築石や石橋・石仏などに盛んに用いられた。磨崖仏を造立するにはとても都合のよい岩石であったのである。

 また、大分県の磨崖仏は、仁聞、日羅、蓮城法師の三人が彫像したと伝えられているが、実際には無名の石工たちが長い年月をかけて彫ったのであろう。その過程で、石工たちは作業の合間に水分を補給しなければならなかった。ただでさえ、岩石を穿つ重労働である。作業の合間にとる水のことを硯水というが、この水が近くにあることが磨崖仏造立の第一条件だった。

 また、磨崖仏は仏様であるから、毎日水をお供えしなければならない。この水のことを閼伽水という。第七章で述べたように、閼伽水は見た目の透明度が高く硫酸イオンが多量に含まれている。おそらく先人たちは閼伽水に適した水質を持っている湧水を経験的に知り、彫りやすいその場所に磨崖仏を造立したと考えられる。