2015年11月27日金曜日

20151127

A「最近テレビを観てもどうも面白くないのだけれど、私も年なのかねえ?」

B「はあ、私はそれ以前にテレビをここ最近あまり観た記憶がありません。それでも特に観たいとも思いませんので、Aさんもいっそのこと何か他のことをされては如何でしょうか?」

A「いや、それは分かっているよ。しかし食事を摂っている時などはやはり観てしまうよ・・。そして、その時に観る番組がどうも面白くないのだよ。」

B「はあ、そういうことですか・・。
たしかに最近のテレビ番組を不図どこかで観ていますと、何かを煽ろうとしているのではないかと思わせますね。また出演している芸能人の方々も昔の様に楽しんでやっているのでなくて、何だかやらされている感が強い様に見えてしまいます・・。まあ、これは当人になってみないとよくわかりませんが。」

A「うーん、たしかに何かその番組の目的に向けて無理やりやらされている感じはしますね・・。
テレビ業界もPC、スマホなどの世界に押されて苦戦しているのかもしれませんね・・。まあ、しかしそう考えるとPC、スマホなどが普及する以前の世界は素朴で幸せであったのかもしれない・・。」

B「なるほど、そういわれますと、それら一連のPC、スマホなどは我々人類にとって禁断の果実であったのかもしれませんね()。」

A「・・・ううむ、これはちょっと上手いこといいましたね()
まあ、たしかにあの会社もそういったことを企図して社名をつけたのかもしれませんね。私は創業者がその果物が大好物であったからと聞いていましたが、実のところその様な寓意もあったのかもしれない・・。」

B「まあ、いずれにしましても、それらの機器の使用によってリアルタイムな、ある程度の情報収集が可能になったのですが、その代わりに我々はどの様な機能を退化あるいは失ってしまったのでしょうかね?
様々な分野の研究の際の文献調査などはもしかしたら図書館へ行くよりも、インターネット上の文献検索サイトでことが足りてしまうのかもしれないのが現状であるかもしれません。」

A「うん、多くの学問研究分野においてその様な状態になりつつあるのでしょう。
特にある実体を用いる、実験、分析を主とする様な理系分野においては内容が普遍的でなければならないから特にそうなのかもしれないし、その方が良いのかもしれない・・。
しかし一方、古典、古文書などを扱うある種の文系学問分野においてはなかなかそう簡単に合理化されないでしょうね()
ちなみに私は年のせいか、今となってはそういった原始的な学問、研究の方にどちらかというと親近感をおぼえてしまうな()。」

B「ええ、偶然か必然かわかりませんが、そういった学問、研究の最も根源的な部分は、科学技術の進化発展による影響も今のところ少ないようですね。
そしてこの構図は前にもブログで出ましたウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」にどこか類似していますね。
また、その構図を現代の状況に当てはめて考えてみますと、古典などのなかに現代の問題を解決するヒントが隠されているのかもしれませんね。
まあ、これは少しいいすぎかもしれませんが()。」

A「いやいや、それはあるかもしれないね。古典などの現代ではなかなか理解しにくいものを軽んずるのはよくないと思います。
しかし一方、逆にそういったものが重要であるからといってこれを盲信してしまうのもまたどうかなと思うよ。
そういうのは戦前、戦中に流行した日本浪漫派のような、何というか意味が未消化の古代っぽい言語を駆使するが、その具体的内容はよくわからないような文体が出てきて、結局そういったものにバカされるようなことになるのではないかな・・。
ああいう変に叙情性を煽るようなものはどうも私は好きになれないな。ああいうのが流行りだすと、社会はおかしな方向に行くような気がしてならない・・。」

B「ええ、そうですね。Aさんの仰る日本浪漫派に関しての御指摘は現代の我が国社会に似た様な傾向があるのかもしれませんね・・。
そしてその主要な原因というものを考えてみますと、まあ思いつきですが、それはインターネットの普及により、様々なレベル、相の言語が飛び交い、混交するような言語空間が形成されたからではないかと思います・・。
そしてそういった状況が今後どのような形で安定してゆくのか分かりませんが、私としては、英語学習の早期化などよりも、母国語の明晰化にもう少し力を注いだ方が良いのではないかと思います。
インターネットの普及が招来する混乱した言語状況の中で国語を学ぶ小中学生などは、もしかしたら私の時代などよりも過酷な状況にいるのかもしれません・・。
しかし、そう考えますと、さきほどの日本浪漫派にもまた皮肉にもそういった日本文化の興隆、明晰化の意図、目的があったと思われます。
そして、それはほぼ同時期に生じた国体明徴運動から派生したものであるのかもしれません。
そしてそれを現代の日本に置き換えますと、おもてなし、クールジャパンとか、よくわからない叙情性、ノリの重視、絶対化などがそれに類似するのではないかと思います。
そうした一連の流れの類似が歴史においてパターン化され得るものであるのならば、この先に戦争があるのかもしれませんね。まあ、それはないと思いますけれども・・()。」

A「歴史の流れのパターン化ですか・・。たしかにそういった見方も出来ますね。
それで私も不図思いついたのだけれど、君は「とりかへばや物語」を知っていますか?
これは平安時代末期つまり源平合戦の頃に書かれたものなのだけれど、この物語のあらすじは男が女として、女が男として育てられ出世していくというものなのだけれど、この時代、つまり京都の宮廷文化を中心とする社会に外敵、つまりここでは東夷、坂東武者の侵入が懸念される様な時代状況になると、女性は男性化、男性は女性化したがる様な傾向があるのかもしれません・・。
まあ、これもあくまでも思いつきだけれど、最近の社会状況だとかニュースなどを見聞きしていると不図そんなことを考えてしまった。」

B「・・なるほどです。私はこれまで「とりかへばや物語」を知りませんでしたが、平安末期は時代の転換期であり、そういった時期になんといいますか性転換の願望が顕在化しやすいというのは、大変興味深い御意見です。
そして、そこから私が思い出すのは幕末期の「ええじゃないか」です。
これは東海地方から発生したものなのですが、その中で女性が男装をして、男性が女装をしていたことも描かれていますから、そういった時代の転換期においては潜在的な欲望を隠しておく何かが弱くなり、そのような現象が多く見られるようになるのかもしれません。
また、そういいますと、先日のハロウィンの渋谷での仮装行列ももしかすると、それと類似したものであるとも見ることができます・・。」

A「ううむ、そう見ることもできますねえ・・。
しかし歴史などに関する研究は、概ね帰納法的に一つ一つの要素を積み重ねてゆき、そして最終的には理系分野の研究における普遍的、再現可能な確証までは至ることが大変困難、いや多分無理なのだけれど、ただ、その確証の根拠に近いものを興味を持ち、それを聞いてくれた、読んでくれた人々に提示するというのが限界であるから、たとえ仮に実際それらの間に何かしらの関係があったとしても、なかなかそれを証明することは難しいと思います。
しかしそれでも今のはなかなか面白かったですよ(笑)。」

B「はあ、そうですか。どうもありがとうございます。では、この話も個人特定の要素を削除してまたブログに投稿しようと思います()。」