2015年7月15日水曜日

野矢茂樹著「ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 (ちくま学芸文庫)より抜粋


1-1「論理哲学論考」はまちがっているのか
「論理哲学論考」―この著作をわれわれは以下、単に「論考」と呼ぶ。
その序文の終わり近く、ウィトゲンシュタインは次のように記している。

問題はその本質において最終的に解決された。

問題とは、哲学問題であり、哲学問題のすべてである。

まともなひとであれば、こんな結論をもつというだけで、この本のどこかにまちがいがあるに違いないと判断するだろう。しかもこの直前にはこう述べてもいる。

本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる。

「論考」の出版は1922年であるが、序文には1918年とある。夏である。ウィトゲンシュタインは1889年の春に生まれているから、この序文を書いたときは29歳だったいうことになる。

若きウィトゲンシュタインには失礼だが、侵しがたく決定的に真であり、かつ重要であるような思想が存在すると信じるほど私はもう若くない。
他方、この著作は侵しがたく決定的に重要であると私は信じている。ということは、この著作はどこかでまちがっているということだ。

実際、ウィトゲンシュタイン自身が後に「論考」を自己批判するに至っている。
そこで、ウィトゲンシュタインの哲学は大きく分けて前期と後期の二つに区分される。あるいはもう少し細く、その間に中期ないし移行期がはさまれて三つに区分される。
いずれにせよ、「論考」は前期ウィトゲンシュタインの著作であり、それを批判し、乗り越えて後期ウィトゲンシュタインの思索が展開されることになる。
現実から可能性へ

2-1「世界」と「論理空間」
別にこれから「論考」の「本文を一行ずつ読んでいこうというわけではないが、何はともあれ、やはり冒頭の一文から見ておこう。「論考」は次の文から始められる。
一 世界は成立していることがらの総体である。
「成立していることがら」というのは、たとえばウィトゲンシュタインはウィーン生まれであるとか、ウィトゲンシュタインは四人の兄と三人の姉をもつ末っ子であるといった、この現実世界の事実のことである。これに対して、「可能性としては成立することもありえたのに、現実には成立しなかったこと」というのもある。たとえば、ウィトゲンシュタインは結婚したことがあるとか、ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士であったといったことである。どちらも、可能性としては考えられるが、現実には事実ではない。
そこで、「世界は成立していることがらの総体である」と言われる。ということは、ここにおいてウィトゲンシュタインは、「世界」という語をあくまでも「現実世界」を意味するようなものとして導入しているのである。この点をまず抑えておかねばならない。想像の世界、たんに思考されただけの世界は「世界」ではない。
そうすると気になるのは、思考された世界である。つまり、あくまでも現実的なものとしての「世界」は「成立している事柄の総体」であるが、それに対して、現実には成立しなかったことも合わせ、それら成立したこと・しなかったことをともにもつような「成立しうることがらの総体」、すなわち、「世界をその一部として含み、世界よりも大きい何ものか。
ウィトゲンシュタインは、それを「論理空間」と呼ぶ。「論理空間」なるものがいったいどのようなものなのかは、まだここで明確に論じることはできない。後でゆっくり主題的に検討することにして、今のところは、現実性を受け持つものとしての「世界」と、それに対して可能性を受け持つものとしての「論理空間」とを、次のように漠然と対置させて据えておくことにしよう。

世界・・・現実に成立していることの総体

論理空間・可能性として成立しうることの総体

「論理空間」は、「論考」において最上級の重要概念である。前章の話を思い出してほしい。「論考」の目指すところは思考の限界を画定することであった。我々にはどれほどのことが考えられるのか。それが「論考」の根本問題である。

他方、論理空間とは、可能性として成立しうることの総体、つまり、世界のあり方の可能性として我々が考えられるかぎりのすべてである。

とすれば、まさに論理空間のあり方を明らかにすることは、思考の限界を画定することに直接結びつくものとなるだろう。もっと単刀直入に言うならばその分少しラフな言い方になるが、論理空間の限界こそ、思考の限界にほかならない。

かくして、まずめざされるべきは「論理空間」のあり方を明確にすることである。
つまり、可能性の総体とはどのようにあるのか。
そして、そこにたどりつくためにわれわれが立っている、その出発点のここ、それが現実のこの「世界」にほかならない。つまり、「成立していることがらの総体」としての現実世界。我々はそこにいる。そして、そこから可能性へと歩み出ようとしている。

ここで「論考」が、徹底的に現実に立ちつつ可能性を捉えようとしているという点は強調しておくべきだろう。
ここには、我々が可能性について哲学的に考察するときに不可欠の感受性がある。
あたりまえの物言いになってしまうが、現実化していない可能性など、現実には何一つ存在しない。そしてわれわれはこの現実世界を生きるしかない。
しかし、それでもわれわれは現象を取り巻く広大な可能性を了解している。
こんなこともありえた、あんなこともありうる。そんな無数の可能性の中のひとつが、この現実なのである。しかし、可能性が現実を「取り巻く」とは、どういうことなのだろうか。もちろん「取り巻く」という言い方は比喩にほかならない。そして、日常的なこの何気ない比喩の実質を見定めるのは、哲学の仕事である。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
ISBN-10: 4480089810
ISBN-13: 978-4480089816

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著 丘沢静也訳 青土社刊 「反哲学的断章―文化と価値」pp.65-66より抜粋

「哲学ってぜんぜん進歩しないんですね」とか、「哲学って、その昔、ギリシャ人が頭を悩ませていたのと同じ問題で、今も頭を悩ませてるんでしょう」とか。
何度も何度も聞かされてきたセリフである。
ところで、そういうセリフを口にする人は、なぜそうなのか、理由がわかっていないのだ。その理由とは、われわれの言語が相変わらず同じであり続けているからであり、われわれの言語が何度も何度もわれわれを同じ問題へと誘惑するからである。
「sein(存在する、・・・である)」という動詞は「食べる」とか「飲む」と似た働きをするようだが、この「存在する、・・である」という動詞がある限り、また「同一の」とか「真の」とか「偽の」とか「可能な」という形容詞がある限り、また、時間の流れとか、空間のひろがりとかが語られるかぎり・・・、何度も何度も、同じような謎めいた困難にぶつかることになるだろう。そして、どんな説明によっても解決できない問題を、見つめることになるだろう。ちなみに、こういう堂々めぐりは、この世ならざるものへの望みを満足させてくれる。というのも、「人間の知性の限界」を見ているのだと思うことによって、当然、限界のむこうまで見えているのだと思うからである。
「哲学者たちは、プラトンが近づいた以上には「実在」の意味に近づいてはいない・・。」という英語を読む。
なんと奇妙な事態だろう。
それでは、プラトンがずいぶん遠くまで行けた、ということになってしまう。
あるいは、私たちがプラトンより遠くに行けなかった、ということになってしまう。
どちらにしても、なんと奇妙な話だろう。
プラトンがそんなに利口だったから、ということだろうか。
MS111 133:24.8.1931
反哲学的断章―文化と価値
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
ISBN-10: 4791757327
ISBN-13: 978-4791757329