A「最近また歴史についてのブログ記事を書いているどうですね。」
B「ええ、ここ最近何となく記事を書いていましたら、自然とそちらの方向に行くようになりました。これは正直なところ書いている自分でも、多少不思議に思うところです(笑)。」
A「うん、何かしら書いているうちに導かれるようなことは、ごく普通にあると思いますので、それはそれで良いのではないでしょうか? また、その書かれている内容についても、そこで扱っていた、馬の冑ですか?について、私はあまり知りませんが、その背景にある云わんとすることは、概ね同感できますね。」
B「はあ、そうですか!そう仰って頂けるとありがたいです。また、さらに言わせて頂きますと、博物館あるいは、そうした歴史に属するモノについてを扱った写真集のような著作の意味合い、価値といったものは、そういったところにあるのではないかと思います・・。
A「うん、博物館で古代に作られたものなどを見ますと、私は少し放心したような状態になることがあるのですが、おそらく、この放心に近い状態において、私の精神は、現在を生きている自分と、その目の前に置かれているものとの間にある遠大な時間を超えようと、あるいはそのものと繋がろうとしているのではないかと思うのです・・。無論、こうした試みは簡単に達成出来るわけではありませんが、それでも、いくらか書籍を読んで調べたりしていますと、よく分かりませんが、何かが繋がったと感じることも時々はあるのです。そして、歴史を学ぶということは、この決して多くはない実感を得るために行っているとも云えるのかもしれません・・(苦笑)。」
B「ああ、それは私も同感です。銅鐸などを見ていますと、何故この時代の人々はこうしたデザインにカミのようなものを見出したのだろうか?などと漠然と思い。また他方で、それを作成した鋳造技術について「これが出来るまでに何回失敗したのだろうか・・?」などと、まあ少し邪な考えが湧いてくることがありますが、そうしたことを、関連する書籍なども読みつつ繰り返し行っていますと、ある時、その銅鐸のカタチや紋様から現在の我々が持つ感覚とも繋がる「何か」が不図脳裏によぎることがあるのです・・。そして、さきほどAさんが仰ったことは、おそらく、私にとっては、こうした現象が相当するのではないかと思われるのです・・。」
A「・・なるほど、それはたしかに全く違う感覚であるとは云えません・・。あるいはかなり似たような感覚であるのかもしれません・・。また、当然ではあると思いますが、それは継続的なインプット、刺激によってはじめて生じるということが、とても重要であるように思いますね・・。そしてまた、おそらく、何であっても、勉強や研究というものは、こうした背景の地均し、あるいは耕すという意味があるからこそ、重要であるのではないかと思うのですが、これは今後、人工知能が発達してきますと、一体どのようになっていくのでしょうかね・・(笑)。」