2024年2月4日日曜日

20240204 株式会社紀伊国屋書店刊 ロバート・グレーヴス著 高杉一郎訳「ギリシャ神話」pp.166‐167より抜粋

株式会社紀伊国屋書店刊 ロバート・グレーヴス著 高杉一郎訳「ギリシャ神話」pp.166‐167より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 431400827X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4314008273

28 オルペウス

a トラーキアの王オイアグロスとムーサのカリオペーの息子であるオルペウスは、ギリシャが生んだもっとも有名な詩人で音楽家だった。アポローンが彼に竪琴をあたえ、ムーサたちがそのかなでかたを教えたので、野獣たちさえ彼の音楽に聞きほれたばかりでなく、木石までも動きだして彼のかなでる調べのあとを追いかけたほどである。トラーキアのゾーネでは、山樫の老樹の木立が彼をとりかこんでさまざまにおどりまわり、さて彼がその場を立ちさったときの最後の踊りの形そのままの姿で、いまも立ちならんでいる。

b エジプトをおとずれたあと、オルペウスはアルゴナウテースたちの遠征に参加して、彼らとともに海路コルキスに渡った。途中、いろいろな困難はあったが、オルペウスの音楽がこれを切り抜けさせてくれた。遠征から帰ってくると、彼はエウリュディケー、一説にはアグリオペーと結婚して、トラーキアに住む野蛮なキコーン族のあいだに身をおちつけた。

c ある日のこと、ペーネイオス河流域のテムペーの近くで、エウリュディケーはたまたまアリスタイオスに会ったが、彼はいきなり彼女を犯そうとした。あわてて逃げようとしたとき、あやまって踏みつけた蛇にかまれて、彼女は世を去った。しかしオルペウスは、妻をとりもどそうとして、勇敢にもタルタロスへ降りていき、テスプローティアのアオルノンで口をひらいている奈落への道を通った。タルタロスに到着すると、彼はその哀切な歌の調べで、冥府の河の渡し守カローン、番犬のケルベロス、死者をさばく三人の裁判官を魅了したばかりでなく、永劫の呪いをうけた者たちの拷問の責苦を一時的ながらとめてやることさえできた。そして冥府の支配者ハーデースの残忍な心をすっかりやわらげたので、エウリュディケーを上の世界へつれもどすゆるしをかちとることができた。ただし、ハーデースはひとつだけ条件をつけた。それは、彼女が無事に太陽の光のもとに帰りつくまで、オルペウスはけっしてうしろをふりむいてはならないということであった。エウリュディケーは、オルペウスの竪琴の調べに導かれ、暗い路を通って彼のあとについて地上へとあがっていった、ふたたびまぶしい陽の光を見たオルペウスは、そこではじめて、はたして彼女が自分のあとについてきているかどうかをたしかめようとして思わずふりかえった。そして永遠にいとしい妻を失ってしまったのである。

20240203 株式会社講談社 講壇社学術文庫刊 谷川健一著「魔の系譜」pp.21-22より抜粋

株式会社講談社 講壇社学術文庫刊 谷川健一著「魔の系譜」pp.21-22より抜粋
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

私は、ユーラシア大陸に縁由をもつといわれるイザナギの呪的逃走のドラマを思い出した。そのドラマは、こうした横穴式古墳を舞台におこなわれた。イザナミは産の苦しみのなかで死に、金銅の王冠は重たく死者にのしかかっていた。彼女の筋肉をつなぐ腱は石棺のなかで溶け、骨に膠着しようとしている。 

 そこはもはや殯宮ではない。死者の黄泉返りをねがって生者が歌舞することはおろか、火を焚くなどもってのほかのことだ。それなのにイザナギは櫛の歯を欠いて火を点じたのだ。封印された石棺の影が、壁に大きくゆれうごく。石壁に刻まれた円は孔雀の怒った羽のようにイザナギにおそいかかる。イザナギは思わずあと退りする。

 しかし屍姦したいとさえ思う愛する女への愛情が、イザナギをふたたび捉える。彼は思い切って石棺のふたを開いた。ところがどうだったか、。屍体には、死臭にとりかこまれて蛆や蛇がたのしげに這っていた。

 イザナギは顔をそむけて逃げ出した、つまずいた拍子に石棺のふたが轟然と鳴って、石室の天井に反響する。石壁の円や三角形も、玄室から羨道へと逃げるイザナギを追っかける。横穴式古墳は両者の愛を、生と死の葛藤に引き裂いた。イザナギは入り口を大岩でふさいだ。そして有名な、あなたの治めている民を、日に千人くびり殺そう、それならば千五百人生もう、という問答が交わされる。死者を守る円や三角形の番人たちは、日本最初の逃走劇のしたしい目撃者となったのだ。

 三角形が神聖な観念であったことは、すでに縄文時代に三角形の土板が護符の役目をはたしているのでも分かるが、埴輪の人物のかぶる帽子や王冠に好んで三角文がつけられるのは、三角形からみちびき出される絶対性の観念が、威厳にみちた王者の飾りにふさわしいものだったからである。王塚古墳(福岡県)の石室いちめんに彩色された三角文は、星空にまがうばかりの死者の宇宙の実在感を私たちに示してくれる。

 装飾古墳のなかには、直線の実在感を私たちに示してくれる。

 装飾古墳のなかには、直線の交叉軸に弧をからませた、いわゆる直弧文と呼ばれる文様がある。アイヌの厚司文様や大礼服の金モールの飾りが、袖口から襟からしのびこむ悪霊を防ぐための模様だったのは、その紐をかたくむすんで、その意味を解きがたくしたような入り組んだ形式が、悪霊どもをとまどわせて、その侵入を防ぐ効果があると信じられたからではあるまいかと考えられているが、縄文土器の奇怪な文様も、装飾古墳の直弧文も同様の効果をあげる目的でつくられたにちがいない。