2017年12月11日月曜日

20171211 我が国におけるナショナリズムの顕現の仕方について思ったこと

昨今さまざまな国々にてナショナリズム(国家主義)の勢いが強くなり、そうした勢力が伸長してきているようです。 

しかし、ある程度大きな歴史的視点から見ますと、こうした世界的現象は、我が国の近代化以降においてもおそらく何度か生じており、また、第一次世界大戦後、欧州内のそうした勢力(国家主義を掲げる)が国の覇権を握り、そして国際間のさまざまな反応が為された結果として生じたのが第二次世界大戦であるとも云えます。

また、それ以前に生じた第一次世界大戦においては、多少背景となる事情が第二次世界大戦と異なり、それは国民国家による国家主義の衝突というよりも、それ以前(おそらく16世紀あたりからではないだろうか)からの皇帝・王様を頂点に頂く帝国同士の植民地およびそこから生じる富を巡る争いに、さきの国家主義・国民国家とも関連のある民族自決・独立といった動きが連動、重なり合ったところにこの大戦の本質的な原因があったと云えます。

とはいえ、こうしたいわば認識し得る過去の歴史の流れに基づき、そこから精確に推論を重ね、現在および未来の世界の状況が理解出来るかというと、そうでもなく、むしろそうした目的意識(実用に役立てようとする)に基づいて歴史を理解し、そして説明しようと試みると多くの場合、その推論とは間違った方向に行ってしまうのではないかと思われます。

それにより『なんだ、じゃあ歴史は役に立たないのか・・』といった評価に我が国の場合は多く陥りがちであり、むしろ、そうした重苦しい抑圧や多くの犠牲が払われた苦痛まみれの歴史など忘れ、ひたすら明るい・キレイな、平和な世界を希求すれば良く、戦闘などはアニメである程度リアル(特に兵器などは)に、さらには美少女キャラを戦わせるといった奇妙な世界が醸成されるのではないかと思われます。

そして、おそらく現在の我が国における国家主義の一つの現れ方がまさしくそういったもの(アニメの美少女キャラに多少色気を加味した軍服らしきものを着せ、前大戦の兵器にて戦わせる)ではないかとも思われます(その原因はよく分かりませんが・・)。

また、そうした独特とも云える世界観にて多く重要視されるものは、さきにも述べた具体的な存在としての個々の兵器、あるいは何となくインパクトのあるコトバ(横文字系)といったあくまでも点的なものであり、そうしたところからも、さきに少し触れました我が国の一般的傾向としての(思想的なものとしての)歴史的感覚・意識の欠如に結節するのではないかと思われます(おそらく我が国の一つの性質として幾つかの要点を感覚的に捉え、それを以って満足してしまうといったところがあるのかもしれない。その意味において西欧的な徹底さ、執拗さ(哲学・宗教に見られるような、あるいは植民地の獲得・保持に対しても見せたような)といったものが良くも悪くも欠如しているとも見受けられます)。

そして、そうした感覚を一般的とするわが国民と歴史認識を巡り日常的に議論が為されている国民(あるいはそうした中で鍛えられた人々)が歴史認識を巡り議論を交わしたところで、おそらく知的なレベルでの国際世論とは、我が国にとってありがたい方向には行ってはくれないように思われるのです・・。

しかし、それでも、さきに述べたように現実的な有用性から歴史を捉えることは危険であり、それは竹山道雄がどこかで述べていた『演繹的な発想にて歴史を捉えていくと必ず間違った方向に行く』と通底するものがあるように思われます。(もしも竹山道雄が現在存命であったならば、この国内、国際情勢をどう論じるのであろうか・・?)

とはいえ、それでも、否、それだからこそ歴史には価値があるといった、もう一つにあるとも云える未だ不可知な見解・仮説に対して、どうも我々日本人は疑念を持ってしまうようなところ(あくまでも此岸的な性質)があるのではないかと思われます。


今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年から現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

また、昨今、再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。





















20171210 昨日より本日にかけて生じたことから思ったこと・・偶然の意味?

どうしたわけか昨日から本日にかけて文系・歯科理工学双方分野の師匠よりご連絡を頂きました。

こうした偶然とは、これまでにあったと記憶しておりませんでしたので『さて、どうしたものだろうか?』と不図考えてしまいます。

おそらく、この偶然の背景に何らかの有意な背景・意味合いなどはないと考えますが、しかし一方で、全くないとも断じ切ることも出来ませんので、とりあえずそうした出来事があったことをブログ記事として記録しておこうと考えました。

また、この出来事についてもう少し考えてみますと、おそらく人には、そうした偶然の出来事がやけに重なる時期といったものがあるのではないかと思われますが如何でしょうか?

そして、そうした経験を一度経ると『一体あの時期とは何であったのか?』と否応なく、その意味について考えてしまうようになるのです・・。

自身は特に神秘主義者ではありませんが、こうした経験により『自身を含めた人間も自然の一部』であることが何となく分かってくるようになるのではないかと思われます。
(おそらく我が国にはこれといった規範となるような宗教がない代わりに、めいめいがそうした経験を通じて、西欧社会における道徳感情に近いものを獲得していたのではないかとも思われ、またそれはおそらく今現在においても地方では生きているのではないだろうか・・?)

また、こうした経験とは遊園地のアトラクションのように意識的に経ることは出来なく、よく分からない時期・拍子に突如として生じる・訪れるといったところがあるのではないかと思われます。

あるいはその感覚とは、実際の経験はありませんが、パチンコにて当たり玉が入ると急激ににぎやかになるといった事態にもどことなく似ているのではないかとも思われます。

これまでのブログ記事においても書きましたが、自身にとってそうした時期とは2011年頃から2013年春くらいまで続いたのではないかと記憶しています。

もしくはこの時期のことをD2病と称するのかもしれませんが、こうした時期とは、一面において自身の精神が不安定にもなるのですが、同時に理由はよく分かりませんが、この時期がとても大切であるように思われるのです・・。

おそらくこの時期を経ることがなければ、自身はこれまでのような継続的なブログ記事の作成は到底出来なかったものと考えます。

ここに書いたことに共感される方々が、どの程度いらっしゃるか分かりませんが、出来れば多ければ多い方が良いのではないかと思います・・(笑)。

ともあれ今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。


20171210 既知の知見をブログ記事として書く意味について・・

昨日投稿分記事のような観念的ともいえる内容の文章を書きますと、面白いことに、その直後に歯科材料などといった、あくまでも対象が存在する世界に関する文章を書くことが難しく思われてくるようです。

とはいえ、おそらくこれも単に現在の感覚であり、今後何らかの機会により歯科材料に関する書籍等を読み、あるいは会話などをすることにより、この感覚とはキレイに何処かに去っていくといったものではないかと思われます。

また、そうしますと、今現在とは特に自身を歯科材料向けにする必要もなく、どうにか観念的な内容の文章を書くことが出来ておりますので、このままの自然な流れにしたがい、新たなブログ記事の作成を行います。

とはいえ、ここ最近は我が国の古代史・民俗学、歯科材料、歯科医療そして現今の散文的な内容にてブログ記事を作成し続けましたが、やはりそれら内容・主題により閲覧者数はある程度変化するようであり、具体的には古墳を主題とする記事は、他を主題とするものに比べて多少多かったと云えます。

また、こうして、ある程度多くの方々に記事が読まれていることを実感しますと自然『ウカツなことは書けないな・・』といった感覚が生じてきますが、古墳に関する記事に関しては、最新の知見でないことはあるかもしれませんが、大抵は一般に認め得る知見に基づく文章であったものと考えます。

また歯科材料に関しては『合金について①』が相対的に多く読んで頂けているようですが、これら歯科材料に関する一連の記事内容にある知見とは複数刊行されている歯科理工学の教科書レベルのものであり、表現、言い回しは自身の理解の仕方にしたがい一応オリジナルの文章にて作成したつもりではありますが、特に新たな知見などはないと云えます。

とはいえ、我が国の古代史・民俗学あるいは歯科材料学といったいずれの分野においても、こうした既知のことがらを自身の文章として新たに書いてみるといった行為とは、たしかに厳密な意味においては創造的とは云えないのかもしれませんが、他方、創造的行為に至るための助走あるいは準備運動といったものではあるように思われるのです・・。

おそらく当初から何もこうした助走・準備運動的な行為を伴わないで、創造的な活動・行為をすることが出来る人とは殆どいないのではないかと思われます。

それ故、今後もいずれの分野であれ、こうした既知のことを題材として記事を作成し続けようと考えます。

そして、そうした場合、おそらく1000記事程度まではどうにか書き続けることが出来るのではないかとも思われるのです・・(笑)。

しかし一方、実際にこれまでに作成したブログ記事内において、古今東西これまでに誰もが指摘、言及してこなかったことがらなどは存在するのでしょうか?

もしも、そうしたものが一つでも存在するのであれば、それのみにて一連のブログ記事の価値とは、わずかではあるにしてもあるのではないかと自身は考えています。

また、そうしたものを(あくまでも)狙い続けることが、一見地味ではあれ、また他との外見的な差異は認められないにしても、大事なこと【それこそが創造性】ではあるまいかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ今回もまた、ここまで読んで頂きましてどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸
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20171209 記事作成をある程度継続していて思うこと・・集合的無意識?

昨日分の投稿記事もまた、おかげさまにて投稿翌日にしてはかなり多くの方々(90以上)に読んで頂けました。

これは去る12月3日投稿分の『 国民性の由来・・歴史が重視される理由?』に次ぐ値であり、また歯科医療を題材とした記事にて、これほど多くの閲覧者数を一日で得ることが出来るとは思っていませんでした・・(笑)。

それ故、これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

そしてまた、この記事から新たな知見や、それぞれが持つお考えに対して、わずかでも資するところがあれば幸いです。

とはいえ、昨日に関しても同様ですが、記事を作成している際とは、文章の推敲などを行いまた、割合集中して文章入力・作成を行っている時間もありますが、この文章の入力・作成をしている時とは、面白いことにあまり周囲のことも気にならず、目に入らずPC画面とキーボード上にて動く自身の指の動きのみが視界に入っている状態ではあるのですが、その一方で文章が今現在このようにして入力されているのです(笑)。

そうしますと、自身は『何も考えずに文章を作成・入力しているのか?』といったことにもなりますが、どうやらそういうわけでもなく、上手く表現することは出来ませんが、文章の作成がある程度スムーズに為されている時とは、何らかの『波』のようなものがあり、これに一度乗ることが出来ると、ある程度継続して文章の作成が出来るようであり、またその際に入力された文字の変換などがスムーズに為されなかったりしますと、多少のストレスを感じ、何と云いますか、この訪れた『波』と自身の精神の同期化が乱されるといった感覚をおぼえるのです・・。

また、昨日においてもそのようにして記事文章を作成し、それにより多くの方々に読んで頂きますと、何故であるかよく分かりませんが、その記事が自身が作成したものではないようにも思えてくるのです・・。

無論それら記事文章は書籍からの抜粋引用・コピペなどではなく、自身オリジナルの文章ではあるのですが、どうもそのように(自身の作成した文章ではないように)感じさせる何かが文章作成の継続を通じ涌出してくるのではないかと思われるのです。

そしてまた、多少おかしなことであるかもしれませんが、その感覚こそが、あまりその因果関係・作用機序を上手く説明することは出来ませんが、ある程度の数の記事量産を可能ならしめている一つの要素ではないかと思われるのです。

ともあれ、そうしますと、この文章作成の際に訪れる『波』と自身の精神が同期化なされていない時のいわば通常状態の自身とは、ある意味それぞれ別の人格?であることから、どうにか継続的な文章作成が為されているといったことになるのかもしれません・・。

人は真に創造的になっている時は決して自己の客観視を許さない』と云われますが、その残像らしきものについておぼろげに書き記してみますと、以上のような感じとなります。

しかしそれでもやはりよく分からないことは『ある程度集中して(多少は)内容があると思われる文章といったものを作成している際に記す内容すなわち考えとは一体何処から訪れ文章化されているのだろうか?』ということです。

あるいは、そのさきにあるものというのがフロイトユングが述べた集合的無意識に繋がる大きな何かであるようにも思われるのですが、実際はどうなのでしょうか?

ともあれ、何れにしても文章作成の継続を通じ、他にも何かしら思うところが涌出してくるといった現象は大変興味深く面白いことから今後もいましばらく記事作成を継続してみます。

そしてまた今回もここまで読んで頂きましてどうもありがとうございます。

昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った
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20171208 歯科医療機関≒知識集約的中小企業?

昨日の投稿記事もまた思いのほか多くの方々(70以上)に読んで頂けました。

これを読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。

この経緯を踏まえ、本日もまた昨日の投稿記事内容に関連して思うことを以下に述べさせて頂きます。

我が国の大半の医院・歯科医院とは、一面において中小企業であると昨日の投稿記事にて述べましたが、これはその従業員数にて考えてみますと自明のことであると云えます。

くわえて
、自身が以前に就いた職務にて特に歯科医療機関の求人情報・状況を調べていた時期がありました。

その際に得た感覚的な知見ではありますが従業員数50名以上の歯科医療機関とは一握りもないほどであり、その大半が従業員数10名以下程度の規模でした。

それ故、さきにも述べた大半の歯科医療機関とは中小企業といったことになるわけですが、その一方、この中小企業といった側面のほかに、いわば零細とも云える医院(企業)規模のなかにおいて指導医・専門医・認定医あるいは大学非常勤講師・学位取得者などが見受けられるところが市井の医院・歯科医院における大変興味深いところであり、また同時にさきに述べた知識集約的と評し得る所以であると云えます。

さて、ここまでは概ね昨日の記事にて述べた内容とほぼ同様ですが、ともあれ以上のことを踏まえつつ、次にその従業員について述べます。

医師・歯科医師については戦後よりその修業年限に大きな変革はありませんでしたが、近年、看護師養成機関の四年制大学化が為され、またそれと類似した流れによるものか、歯科医療における看護師的な存在と云える歯科衛生士の養成機関においてもまた四年制大学化の傾向があると云えます。

さらにその後、修士・博士課程に進まれる方々もいらっしゃるとのことであり、これはさきの医療業界全般における知識集約化の更なる進展においては決して悪くない傾向であると云えます。

しかしながら一方、四年制大学化された歯科衛生士養成機関を卒業し歯科衛生士免許を取得された方々とは、一面において中小企業の体を示す市井の歯科医療機関に勤務するよりもむしろ、通常の四年制大学学部を卒業された方々が望むような所謂大企業等に勤務することを望むといった傾向が(少なからず)見受けられるとのことです。

この傾向とはたしかに無理からぬことではあると思われますが、さきに述べた歯科医療機関にて知識集約的と認められ、さらにそのさきにおいて自身の専門分野をさらに深化させていくこと(いわゆるキャリアアップ)が可能と思われる歯科医療機関については、大企業などにて勤務するよりもはるかに得るものが多いのではないかとも思われます(具体的には規模の大小は問わず学外講座的存在の歯科医療機関あるいはそれに近いものが良いのではないかと思われます)。

またおそらく、過去にそうした歯科衛生士が少なからず存在したことにより現今の潮流である歯科衛生士養成機関の四年制大学化が為され、また、この流れとは未だ決して低調化するものではなく、具体的には世界に先駆けて高齢化社会が到来することにより、今後のさらなる介護福祉分野の拡充が望まれる我が国においては更に活躍の場を見出し、あるいはその専門職としてのあり方自体もまた変化していくことが可能であると考えます。

そして、こうした流れが生じた場合、それはおそらく歯科医療のみならず医療さらには我が国社会全体に対しても資するところが少なからずあるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

とはいえ今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までにて列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸
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昨今より再び噴火をはじめた新燃岳周辺におられる方々の御無事をも祈念しています。

参考サイトURL:http://www.huffingtonpost.jp/takayoshi-hashimura/future-of-dentistry_b_9184562.html 
歯科医療近未来予想図