2026年5月13日水曜日

20260513 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から「現代政治の思想と行動」追補」 pp.99‐103より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から「現代政治の思想と行動」追補」
pp.99‐103より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

 たしかに市民社会と政治にたいするアンチテーゼとして文学や芸術の課題を提起することそれ自体はべつに日本に特殊でなく、世界中いたるところにある傾向にちがいありません 。けれども近代日本の文学者・芸術家に多少とも共通する反政治的もしくは非政治的態度は、社会的「隠逸」に裏うちされていましたから、政治にたいする芸術の擁護に立上ったり権力にたいする"抗議"として現われることはむしろ稀でした。社会的「かかわり」と反対に、彼等の反俗物主義とは世間にたいして芸術という聖域に垣根をはりめぐらすことであり、したがってごく普通の市民の一人としてささやかな政治活動を隣人とともにすることも、彼等にとっては俗物への顚落とみなされがちでした 。(こういう「反政治主義」は人間活動の一部として政治の位置を指定し、同時に限界づけることができませんから、時あってか全政治主義に飜転します。がその問題はここでは差しおきます 。)いずれにしてもこうした精神態度が、知性の連帯に基く共同体の形成の阻害要因になることは言を俟たないでしょう。
 こうして『三酔人経綸問答』の主人公達の間にあったような知的共同体の意識というのは、二十世紀初頭にはすでに急速に失われつつあったのです 。まさに、ふたたび会することがなかったわけです 。これは必ずしもイデオロギーの対立がより激烈になったからではありません。イデオロギーの対立の幅をいうのであれば、大日本帝国憲法発布以前の時代の方がむしろ大きいとさえいえます。明治十年代には主権在民論まで堂々と登場したわけですから・・・。むしろ問題は大日本帝国の国内体制が整備され、政治、産業、教育、軍備などいろいろの領域で制度的近代化のテンポが速まるに従って、知識人の社会的流動性はより少なくなった、という点にあります 。つまり公私の官僚制の中に編成された制度的知識人とその外にある「自由知識人」との間の分化が次第に固定化してしまった。しかも自由知識人自身がそれぞれ排他的な職業的空間に活動領域を限定する傾向が強くなってきた。そうして他方では、異った領域の知識人が相会し、談論風発する場ーたとえばフランス百科全書家の集ったサロンとか、ずっと後でも、サン・ジェルマン・デ・プレのコーヒー・ハウスとか、あるいはイギリスのクラブとかいう場は一向に発達しません 。そこで個々の閉鎖的職場をつなぐ共通の知的言語が衰弱してゆきます。漢学のような古典的教養の共通性がうすれてゆくこともこれに拍車をかけたといえるでしょう。そこに積極的な要因としてインテリの専門化・技術化が早期から進行したという事情が加わります。これは帝国大学に最初から工学部が設置されていたということによく象徴されていると思います 。大学レヴェルでの工学部の設置という点では、日本の大学が模範としたヨーロッパの諸大学より早いわけです。
 日本でこのように専門的・技術特知識人が早期的に登場したことが、どういう意味をもったかという問題に深入りすることは避け、その代りに一つだけ例をひいておきます 。史論家であり、大記者でもあった山路愛山が明治四十三年にすでにこういうことをいっております 。「現代に時めける青年官吏は十中の九まで大学出身の学士にして、而して其の思想はただ其の従事すべき仕事の上にのみ集中せらる 。正にこれ、英雄時代(注ー幕末の志士の時代を指す)去りて『書生』の時代来たり、『書生』の時代去りて専門家の時代に達せりといふべし 。」(傍点丸山)こうして現在世界中に悪名が高くなった専門化に伴うコンパートメント化とかセクショナリズムという傾向は、日本ではほとんど近代化それ自体の「原罪」であったといっても過言ではないと思います 。これは私も大学人であったので自己批判を含めて申すのですが、日本の「総合」大学というものは、およそ université の名に反して、西欧の学問のそれぞれの専門の学科を個別的に輸入する形で成立したために、学部学科の密室化が早くから進行し、したがって学部間の壁は、欧米の大学よりずっと厚い 。こういう歴史的背景を考えますと、たとえば「私は考古学が専門ですから、学生運動のことはわかりません 。」というような教授があらわれ、しかもそういう言葉が別におかしいとも思われないのも、もっともです 。ヒューマニティーズの典型である哲学も、大学では「専攻」の対象として出発しました。
 したがって、ふたたび会することがなかったのは、決して在官と在野の知識人だけではなかったのです 。学問と芸術とは世間的常識としても隣接した文化なのですが、近代日本では学者と芸術家という二つの人種は、隣人どころか、少数の例外をのぞいてはほとんど別の遊星の住人のように相互の眼に映って来たのが実状です。この両領域の架橋を困難にした問題としては、以上に述べて来たような双方の側の事情のほかに、なお科学用語という重大な障害があります 。つまり、自然科学はもちろん人文・社会科学の概念は圧倒的に翻訳語であって、明治以後に造語されたものです 。それだけに日常用語との乖離が甚しいのです 。西欧においては、どんなに難解に見える術語も、すくなくも人文・社会科学の領域では日常用語に根ざしており、ただ、それを洗練して再定義しただけのことです 。こうした用語の背景のちがいによって、たとえば日本の文学者と日本の研究者との間で知的会話を交すうえでどれほどの困難が生れるか、ということは西欧人にとってはほとんど想像を絶するものがあります 。学者が学問の「約束」にしたがって用いる言葉遣いが、学者の間ではどんなに当然として通用しようと、それは文学者にとっては、しばしば日本語の体をなさない生硬な表現と映るのです。これはたいへん深刻な問題ですから、これ以上立ち入りませんが、すくなくも学者と文学者(広くは芸術家)との間の知性的な共属意識の成熟を困難にして来た背景として、そうした「文体」の問題があることだけを念頭に置いていただきたいと思います。

20260611 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補」ー pp.112‐117より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補」 
pp.112‐117より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

 知識人の教養内容は、理解の質を別として、圧倒的に西欧の文化的産物に依存しておりましたので、「皇道」や「日本精神」についての出版物の氾濫にもかかわらず、それらは「インテリ」にとっての魅力を甚だしく欠いておりました。したがって社会主義的ないし自由主義的知識人の「転向」は、全体主義のイデオロギーへの回心というよりは、一切の西欧産の「イズム」を捨てて、帝国の忠良な臣民一般にまでー少くも表向きのうえでー同化すること以上を意味しなかったのです。たしかにここでは、軍国主義にたいする勇敢な抵抗を行なった知識人はすくなかったけれども、知識人が狂熱的な皇道イデオロギーにコミットした程度もナチ・ドイツに比べて低かった、といえます。「思想問題」が呼びさました「知性の王国」はもろくも崩れたけれども、戦時体制への協力が、イデオロギー的信奉よりも、国民一般の「世論」や感情への追随と同化を意味したところに、1の章でのべた近代日本の知性の二重構造ー社会層としての「インテリ」のまとまりの弱さと、知性が平等主義的に社会的に分布していることから来る「擬似インテリ」の磁性の強力さーが集中的に表現されております。そうして戦後における思想の「解放」が、ヨーロッパにおけるよりも、はるかに大きな程度で知識人一般の解放として感覚されたのも、右のような歴史的背景のもとで理解されるのです。伝統的にドイツ国家学の圧倒的影響の下にあった法学の分野で、ある教授は敗戦後、つぎのような述懐を同僚に洩らした、と伝えられております。「これからはわれわれもようやく本当に『一般国家学』(Allgemeine Staatslehre)を語れるようになりますね。」

 こうして第三のエポックがまいります。これが敗戦直後の時代です。大日本帝国の思想的に「閉じた」社会の厚い壁が一挙に崩れ落ち、「暗い谷間」を過した知識人に、三たび知性の王国への共属意識が呼び醒まされたわけです。
 戦後三十年ちかくを経た今日の日本では、戦争直後に民主主義の知的なチャンピオンとして活躍した知識人たちにたいし、つぎのような非難と嘲弄を浴びせるのが一種の流行になっております。ー彼等は連合国による軍事占領というきびしい現実を直視せず、「ポツダム宣言」による「外から」の解放に有頂天になってバラ色の啓蒙主義に酔いしれ、呆然として衣食住をもとめて焦土にさまよう大衆に先覚者気取りで説教するのを事としていた、というのです。こうした非難に部分的にリアリティがないわけではありません。けれども、敗戦直後の知的風景をすべてこうした非難のタッチでぬりつぶすことは、誇張であるだけでなく、それ自体が一つ新らしい政治神話のために広告絵をえがくことになります。その神話とは、戦後民主主義の諸改革は「行過ぎ」であり、非武装を規定した新憲法は空想的=偽瞞的であり、日本のすぐれた伝統は、祖国の悪口をいうことを商売にするこれら知識人たちによって踏みにじられた、という説を国民に信じこませようとする神話です。
 けれども実際には、敗戦後、知識人たちをふたたび共同の課題と任務にまで結びつけ、立ち上がらせた動機はもっと複雑なものでした。「配給された自由」を自発的なものに転化するためには、日本国家と同様に、自分たちも、知識人としての新らしいスタートをきらねばならない、という彼等の決意の底には、将来への希望のよろこびと過去への悔恨とがーつまり解放感と自責感とがーわかち難くブレンドして流れていたのです。私は妙な言葉ですが仮りにこれを「悔恨共同体の形成」と名付けるのです。つまり戦争直後の知識人に共通して流れていた感情は、それぞれの立場における、またそれぞれの領域における「自己批判」です。一体、知識人としてのこれまでのあり方はあれでよかったのだろうか、何か過去の根本的な反省に立った新らしい出直しが必要なのではないか、という共通の感情が焦土の上にひろがりました。
 もちろん何を悔いたかについては、その人の敗戦までの思想的な道程によって異なり、また世代によっても異なります。かつて「アカ」として逮捕投獄され、転向手記を当局に提出した人々は、変化する精神的気候の中で自分の原則を貫けなかった知的および道徳的な弱さを悔いた。いわゆる自由主義的知識人達も、国内における軍部や右翼の政治勢力の台頭に対し、あるいは中国大陸を「赤化」の脅威から守るという名分の下に拡大して行った、日本の大陸における軍事行動に対し、懐疑と不安をいだきながら、結局は既成事実に押され「新体制」に唱和するまでに自分たちの心を蝕んだコンフォーミズムを悔いた。また、各分野の専門的・技術的知識人にも、自分たちはあまりに社会政治情勢に対して無知で、専門以外のことについては、いわゆる「学のない」国民大衆と全く同じに政府や大本営発表をそのまま素朴に信じながら自分の仕事を続けてきた、今後はもっと広い世界的な視野を持たなければならない、という悔いと反省が広く拡まった。純粋に「聖戦」と「神州不敗」を信じて出陣した、高校・大学の学徒兵たちも、青年は青年なりに無知と無批判からの脱却を志しました。これが空き腹を抱えながら哲学書や社会科学書を買うために本屋の店頭に行列を作るという光景が方々にみられた所以だろうと思います。戦争に反対して辛い目にあった少数の知識人でさえも、自分達のやったことはせいぜい消極的な抵抗ではないか、沈黙と隠遁それ自身が非協力という猜疑の目でみられる時代であったとはいいながら、我々の国にはほとんどいうに足るレジスタンスの動きが無かったことを、知識人の社会的責任の問題として反省せねばならない、もしそれが日本における権力や、画一的な「世論」にたいする抵抗の伝統の不足に由来しているならば、われわれは日本の「驚くべき近代化の成功」のメダルの裏を吟味することから、新らしい日本の出発の基礎作業をはじめようではないか。日本の直面する課題は旧体制の社会変革だけでなく、われわれ自身の「精神革命」の問題である――そうした考えから「これまで通りではいけない」という気持は、非協力知識人の多くをもとらえていた、と思います。
 こうして戦争直後には、専門分野や職業のちがいをこえて新らしい知性の建設をめざすいろいろな集団が噴出しました。例えば「民主主義科学者協会」とか「新日本文学会」とかいう集まりは一九五〇年代になりますと、すでにコミュニストまたはその同伴者の集団とみられておりますが、結成当初の記録をみますと、今日では「あの人までが……」とおどろくような人々の名前をその有力メンバーのなかに見出すでしょう。知識人の再出発――知識人は専門の殻を越えて一つの連帯と責任の意識を持つべきではないか、そういう感情の拡がり、これを私はかりに「悔恨共同体」と呼ぶわけです。
 もちろん、戦争責任を追及されて、逆に「居直」った知識人もいますし、また右にのべたような悔恨の意識が必ずしも好ましい結果だけをもたらした、とはいえません。たとえば、ひとたびコミュニズムの運動から離脱した知識人は、それだけ戦後の悔恨が強く、「背教」をもっぱら自分の弱さに帰する傾向がありました。そうした罪意識の強烈さは、これまで知識人が日本に輸入された他のもろもろの「イズム」を棄てる場合にほとんど見られなかった現象であり、戦前日本のコミュニズムが内包した「精神革命」的性格をいわばネガの形で映し出しております。そこまでは結構です。けれども、厄介なのはそうした罪意識が「今度こそはふたたび党を棄てる過ちを冒すまい」という決意を支えるというところまで亢進すると、それはたとえ党組織の官僚性とか中央部の方針とかに懐疑的になった場合でも、自分を抑制して無条件に上部の方針に服従する傾向を再生産するようになります。

20260512 調べものという習慣:引用記事から科学的文章作成への連関

 ここ最近、続けて書籍からの引用記事を作成・投稿してきましたが、そのおかげもあり、これまでの総投稿記事数は2460を超えました。引用記事の作成は、それなりに楽しい部分があるため、一旦始めますと継続することが出来るのですが、そればかり続けていますと、徐々に精神が変容するのか、あるいは精神の他の部分が主張を始めるのか、こうした自らによる文章の作成をしたくなります。

 さて、こうした自発的な文章作成は、以前にも述べましたとおり、2015年より現在まで当ブログにて(どうにか)継続しており、また、そのおかげもあってか、現在は当ブログ以外においても定期的に執筆の機会を頂いております。そこで作成する文章は、当ブログにて作成するものと比較して、さらに科学的要素が強いと云えます。それは基本的な文章の作成方法が異なるからであり、科学的要素が相対的に乏しいと云える当ブログでは、執筆中に書籍などを用いた調べものをすることは多くありません。しかし、もう一つのより科学的な文章の方では、その都度、調べものや確認をしつつ作成するといった進め方であり、こちらは、勉強にもなり、また時には当ブログでの新たな記事作成の材料にもなります。それ故、こうした文章作成の機会があることは、大変にありがたいことであると云えます。

 つまり現在の私は、当ブログでの文章作成、より科学的な内容での文章作成、そして先に述べました引用記事の作成という、三つの方法を使い分けていることになります。さて、さきに引用記事の作成には楽しさがあると述べましたが、その楽しさとは、書籍の頁を開き文章をキーボードで入力し、その言葉が画面上に顕われるのを見て、そこで用いられている単語などの意味を改めて調べたくなるような楽しさです。

 そのようにして一記事作成しますと、当ブログでの執筆と比較しても同程度の疲労感がありますが、この引用記事作成での「調べものをする習慣」があったからこそ、新たな科学的要素の強い文章作成も出来るようになったのではないかと考えます。

 それぞれにある種のやりがいはあるのですが、私の文章作成の原点はあくまで当ブログであり、ここでの継続、そして2020年以来のエックス(旧ツイッター)との連携により、当ブログ自体も性質が多少変わり、以前よりも、さらに読まれることを意識して記事を作成するようになったと云えます。これまでの継続と幾たびかの環境の変化を経て、新たな文章作成の方法を知りましたが、やはり、それらは単独ではなく、組み合わせと繰り返しによって、身体化されるもののようです。そのため、上達の感覚こそ乏しいですが、2022年の人工知能の社会実装以来、これを用いて新たな文章作成を当ブログとは関係なく試み続けてきたことで、どうにかそれも使えるようにになってきたのではないかと思われます。

 ともあれ、今後もまたしばらく引用記事の投稿が続くでしょうが、私個人としては、その間も当ブログとは別に文章を作成していますので、大きな能力の低下はないと考えております。しかし、時にはこうした「息継ぎ」のように、自らによる文章作成を行うことも、大変良い刺激になることが分かりました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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