A「最近投稿したブログ記事の内容を見てみますとどうも、自身のブログのことを題材にしたものが多いように思いました。これは、最近閲覧者数が増えたことに対しての私なりの無意識的な反応であるのかもしれません・・。
しかし、こうした記事内容とは以前の記事に比べてみると、どうも現実的過ぎて、あまり面白くないのではないかと思いました・・(苦笑)。」
B「はあ、そういわれてみますとたしかに最近はそうした記事内容が多いかもしれませんね。
しかし、それはそれで良いのではないでしょうか?
それよりもそうした変化によって閲覧者数などは変化したのですか?」
A「・・いえ、今のところ明瞭な変化はありませんが、私の作成したブログの面白い点とは、作成している私からすれば歴史、思想ネタなどがあることによるのではないかと考えます。それ故、現在のこのブログ記事内容の傾向とは、多少変化させた方が良いのではないかと思った次第です・・。」
B「まあ、それはあくまでもAさんが決めることですから、変化させるのであれば、それはそれでいいのではないかと思いますが・・(笑)。」
A「・・そうですか、それでしたら今後少しブログ記事内容を変化させてみようと思います・・。それで先日求職活動の帰りに書店に立ち寄り、まだ多少頭痛の残る状態にて特集されている書籍を見てみましたら2・26事件に参加し処刑された磯部浅一の獄中日記が並んでおり、そこから「そういえばもうすぐ2・26事件の日だ。」と思い出しました。とはいえ、この獄中日記は私から見るとかなり過激な内容であり、これまであまり広く刊行されていなかったのではないかと思います・・。そして、そうした書籍が文庫にて刊行され普通に書店に並んでいることに多少驚きを禁じ得ませんでした・・。」
B「ああ、たしかにもうすぐ2・26事件から丁度80年ですね・・。あの事件のことについて書かれた書籍は私もこれまでに何冊か読みましたが、最近はあまり取上げられることも少ないかもしれないですね。とはいえ2・26事件が発生した時代背景などを考えてみますと、現在のこの時代とは、なかなか興味深く映るかもしれませんね・・。そういえば、これまでに2・26事件は何度か映画化されていますね・・。そうしたことから、多分あの事件とは、太平洋戦争に至るまでの戦間期における一つの大きな出来事であり、また同時に我が国の歴史における分水嶺であったのではないかと思います・・。しかし戦後直ぐの極東軍事裁判においてはあまり重要なものとして取上げられなかったようですが・・。それでも当時の社会においてはかなり衝撃的な事件であったのではないかと思います・・。」
A「ええ、私が2・26事件のことを知ったのは事件当時女学生であった祖母から聞いた話であり、その後「何故、国を護るはずの軍隊が叛乱を起したのだろう?」という疑問が生じ、当時家にあった近現代史の書籍を読み、また、同じく当時刊行された叛乱軍に参加された士官の書かれた「生きている2・26」を購入し、あまり分からないながらも熱心に読んでいた記憶があります・・。そのように、私の歴史に対する興味の中においても2・26事件とは、比較的早くから興味をおぼえたものであり、また同時に、その当時から2・26事件と西南戦争との間に漠然とした類似性を感じていたのではないかと思います・・。その後、様々な近現代史に関する書籍を読むうちに、そうした感情的な「思い」とは徐々に静的な公式のようなものに落ち着いてゆこうとするのですが、その一方で実際に歴史に参画した方々の生の声に近いものを書籍などで読みますと、また静的におさまっていたものがザワザワと動き出してくるのです・・。しかし、そのように考えてみますと、歴史上の事件、出来事とは大抵そういったものではないでしょうか?とはいえ、当時の生の声のみでも歴史とはいえませんし、また同時に反省的な視点に立った鳥瞰、俯瞰的な歴史のみでもそれは歴史とはいえないと思いますので、それら視点のバランスが案外と難しいところではないかと思います・・。」
B「・・ええ、歴史上の登場人物における感情などの要素がなければ、学問としての歴史の面白さはかなり少なくなると思います・・。とはいえ、そういったもののみで描かれる歴史というのも、あまり深みがあるようには思えません・・。
しかし、私が最近面白いと思ったことは、日本の長編アニメ的なものにおいては、フィクションとして、そうした両方の視点が設定されてあることなのですが、それらが、どうもどこか世界史にあった(らしい)価値観、世界観から流用しているのではないかということです・・。そして、さらにそうしたアニメ世界の価値観、世界観をオリジナルのものとして認識している年代、層もまた少なからず存在し、またそれが日本のアニメブームにより世界に拡散されているというのは、面白いといえば面白いのですが、同時に「果たしてそれでいいのだろうか・・?」と多少深刻に考えてしまうこともあるのです・・(笑)。」
A「・・そうしたアニメの世界観における何といいますか文化的借景現象らしきものはあまり珍しいものではないと思いますが・・。それは江戸時代の歌舞伎においても事情は多少違うかもしれませんが類似のことはあったのではないかと思います。ですから、私が最近思うことは、それらアニメの世界観そのものよりも、その内容、物語の意図を考えることではないかと思います・・。また、そのように考えると、色々と見えてくることもあるのではないかと思います。
しかし、その見えてくるものの内容を明言することを出来るだけ避けようとするのがどうも我が国の社会の特徴なのではないでしょうか?そこには古来より我が国の文化的な伝統である「すり替え」「見立てる」といったものがあるように私は考えます・・。」
B「・・換骨奪胎ですか。何だか遠藤周作の「沈黙」の最後の章で書かれている棄教した神父の発言を彷彿とさせますが、しかし一方、見方によれば換骨奪胎そのものが、新たなものへの新陳代謝であるとも認識できますから、無限の再生は続くのでしょうが、確固たる伝統のようなものを築くことはなかなか難しくなるのかもしれません・・。ふうむ、そうすると今度は何だか会田雄次や山本七平の発言を想起させますね・・(苦笑)。」