ISBN-13 : 978-4122069138
第二話 従軍免脱
簡単にいえば自傷して従軍を免れようとする行為である。
よくも悪くも平均値的な兵隊が大隊長の当番兵をしているうちに、専用の女にうつつをぬかすような戦陣生活を送っている大隊長や、後方で酒食に耽る余裕のある連隊長以下の将校連中、前線では欠乏しがちの酒・甘味品に限らず多量の糧秣弾薬を抱えこんで、さながらそれが私物であるかのように振舞う主計将校らの所業に腹を据えかね、薬指を切って血書を認め師団長に直訴に及んだ。
それが、直訴の内容は無視されて、自傷を従軍免脱とこじつけられ、軍法会議に送られて、判決は死刑、処刑は即日行われた、という事件である。
その背景には、南方の戦局が日に日に傾いて、小康を保っている支那派遣軍各部隊がいつ南方へ送られるかわからないという状況がある。幹部将校の腐敗を目撃したりすれば、欠乏だらけの戦陣生活に厭気がさしている兵隊が、この上さらに南方へ送られてはやりきれないと思うのは、兵隊心理として一般である。場合によっては、指の一本ぐらい自傷してでも避けたいことである。その自傷を正当化するための血書直訴であると疑えば疑えないこともない。
問題は、しかし、そんなところにあるのではない。直訴などという追いつめられてむき出しになった人間感情を、正当に受理し処理するようなチャンネルと人間的配慮は、よほど英邁で識見豊かな司令官か参謀長でもいない限り、軍という組織にはあり得ないことが問題なのである。
直訴を行った上等兵が何年兵であったか明らかでないが、上等兵になっていて切捨御免の時代に生きているのと大して変わりはないことを知らずにいたわけでもなかろうに、この測定の甘さはどうしたことか、と、もどかしさが残る。直訴など通る軍隊ではないのである。軍隊は腐敗を抱えたままで、その腐敗の程度が深ければ深いほど、その体制の維持に汲々とし、そのためにはどのような非人間的処置をも辞さない組織である。師団長が兵隊の言うことを聞くと思うのが間違いである。師団長は、その戦略単位における天皇の代理人である。天皇や幕府の将軍が庶民の直訴に関心を示した歴史を私たちは持っているであろうか。もし有力なコネも何もない兵隊が上級将校の非違を質したければ、刺交えるつもりで衆人環視の場で弾劾するほかはない。結果は、兵隊にはおそらく規定の最高刑(五年以下ノ懲役又ハ禁錮ー第七十三条)が、相手は転属か、悪くてせいぜい予備役編入か免官ぐらいであろう。それでも、事実の影だけでも残し得る。これをする勇気を、しかし、ほとんどの兵隊が持ち得なかったのである。ひとつ間違えば兵隊の生命など法によって簡単に消されてしまうのだ。「おほきみ辺にこそ死なめ、顧みはせじ」というのは、兵隊の内発的な美徳の情熱ではなくて、皮肉なことに、国家や法が兵隊の生命をかえりみないのである。