株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.133‐136より抜粋
ISBN-10 : 4065314054
ISBN-13 : 978-4065314050
日本語は事実確認に向いていない
養老 言葉は社会を規定できるか、というのが憲法問題の根底にあるという話をしてきましたが、言葉の問題についてもう少し掘り下げて話してみたいと思います。
昆虫の分類をやっていると、ここがどうなっているとか、いちいち言葉で書かなくてはいけません。いまだったら高精細の写真で見せればいいだろと思いますが、分類学では必ず言語化しなくてはいけない。解剖学もそうです。解剖して見ればいいじゃんかと思いますが、そうはいかない。解剖学でも分類学でも、根本的な問題はどう言語化するかです。
なぜかといえば、ヨーロッパの学問は、物と言語の結び付きが強いからです。裁判でも欧米は証言主義で、何を言ったかが証拠になるから、弁護士は余計なことを喋るなと言う。逆に日本は心情主義で、その人がどう思っているかが重要になる。
「事実」「言葉」「言葉を使う人」の三つがあるとしたら、日本の場合は「言葉」と「言葉を使う人」の関節が硬いけど、欧米では「事実」と「言葉」の関節が硬い。「事実」と「言葉」の関節が硬いからこそ、法律にも公文書にも意味があるわけです。でもそこがずるずるな日本では、公文書もクソもないから、そんなものはどっかいってもおかしくない。
そういう違いは、オーストラリアにいたときに日常でしみじみ感じました。ドライで良いなと思う半面、ズレを感じつつ、それを無視して暮らすのに疲れてしまって嫌でした。俺はやっぱり日本人だなと思いました。
東 今のお話を哲学的な言葉にひきつけて言うと、言葉には「事実確認的機能」と「行為遂行的機能」があると言われます。そこで日本語では「行為遂行的機能」がとても強い、だから事実確認の言葉として使いにくい、ということだと思います。
言葉と現実がどう結びつくかというさきほどまでの話とも関係しますが、日本語で言文一致もあまりうまくいっていません。外国の学会では講演原稿を作って読み上げることがあります。でも日本語でそれをやると「原稿を読み上げている講演」になってしまって、聞き手の理解を阻害してしまう。これは話し手の技術の問題ではなく、じつは言葉そのものの問題なんですよ。
多くの人はあまり意識していないのですが、日本語は、書く言語と話す言語にかなり明確な違いがあります。「だ・である」「です・ます」の違いもその一例ですが、それ以上に語彙も違う。耳で聞いても理解できないけれど、読んだらわかるという言葉がたくさんある。プレゼンやスピーチが苦手な人が多いのはそれが理由だと思います。明治以降の日本語の標準化プロセスで、何か失敗したように思います。
養老 日本は昔から「読み書きそろばん」ですから。つまり、「読み書き」が日本語であって、お喋りは入っていない。ところが古代ギリシャでは、ソフィストという弁論術を教えることを仕事にしている人たちがいた。そのくらい話すことに対する考え方が違いますね。日本でそんなことをしようとしたら、「お前、落語家にでもなるのか」で終わってしまう。
東 たしかに「話す」のを職業にするというと、落語をやるくらいの受け取られ方をしますよね。いまは弁論術イコール論破みたいに受け取られてしまっていますが、本来は話す技術とは、聞く技術でもあります。だから、話す技術が教えられていない日本人は必然的に聞く技術もなくて、インタビューもすごく苦手なように思います。
僕はゲンロン・カフェを10年以上やって、たくさんの人の話を聞いてきましたが、そこで気付いたのは、日本のアカデミシャンは聞く力が弱いということです。自分の主張ばかりする。話し相手がいつも生徒や同輩なので、自分の研究の内容を「教える」という関係性しかもったことがなく、対等な対話の訓練を受けていないように思います。このことと養老さんのお話はすごくかかわっている。