2023年10月3日火曜日

20231003 株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」 pp.91-94より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.91-94より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309207529
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309207520

当然ながら、没個性化した世界は、前衛主義のこの挑発に、キッチュをとおしてたちむかうことしかできない。キッチュとはすなわち、見せかけの芸術である。こうしてわたしたちは、童話的キッチュ、聖なるキッチュのほか、ファシズム期に出現した、キッチュと前衛芸術の合いの子が残された。

 キッチュは多種多様だ。キッチュを悪趣味ととらえることもできる。小人の庭飾りや、なかでオロパの聖母像に雪が降る、半円状のガラスの置物などがいい例だ。だが、グイド・ゴッツァーノの、悪趣味のいいものもまたキッチュである(「スペランツァばあさんの友達」、1911)。

オウムの剥製と、アルフィエーリとナポレオンの胸像

額縁に入った花々(悪趣味のいいもの!)

陰気な暖炉、砂糖菓子の入っていない空箱、

ガラスの覆いに守られた、大理石の果実、

ダゲレオタイプのなかの、おぼつかない夢想家、

(・・・)

ダマスク織の布を張った椅子

えんじ色(・・・)

 しかし、効果の追究としてのキッチュもある。つまり、「わたしたちがひとりの女を表現するならば、それは、わたしに一緒に寝たいと思わせるようあ女でなくてはならない」というような。キッチュの真髄は、倫理的カテゴリーと美学的カテゴリーの取り違えにあるのである。

 ヘルマン・ブロッホ(『キッチュ』1933)が言うように、キッチュは、「芸術家に「よい」仕事を課すのではなく、「美しい」仕事をするよう課す。キッチュにとっての重要なのは、美しい効果である」。

 舞台芸術では、効果は必要不可欠な構成要素、すなわち美的要素にまで格上げされる。他方で、芸術的ジャンル、ある明確なブルジョアジーのジャンルが存在する。つまりオペラのことだが、そこでは、効果がもっとも基礎的な構成要素となっている。

 だが、芸術をつくり上げる条件のひとつであるふりをして、実際には芸術レベルに到達しないものとしてのキッチュがありうる。キッチュという言葉が意味をもつとすれば、それは効果を生みだす傾向のある芸術だけを指すからではない。なぜなら多くの場合、偉大な芸術も同じ目的を志したからだ。キッチュはまた、フォルムの均衡がくずれた作品そのものを指すわけではない。それならば、その作品はただの醜い作品ということになるはずだ。ほかのコンテクストで登場したスタイルを踏襲している作品、という特徴をもっているわけでもない。それだけなら、なにも悪趣味に陥らなくともできることだ。キッチュは効果を促進するみずからの機能を正当化させるために、他人の経験という抜け殻を着て気取って歩き、それを芸術として売る作品を指すのだ。