昨日投稿分の記事は思いのほかに多くの方々(31)に読んで頂いておりました。
これまでほぼ毎日ブログ記事を作成、投稿しておりますが、やはり読んでみて面白いと感じられる記事は、より多くの読者を得ることが出来ているのかもしれません。
とはいえ、作成している本人からすれば、一体どのような記事が面白いのかとは、今現在に至るまであまりよく分かっておりません(苦笑)。
それでも、ある程度実証的であり、且つ新しいと思われる知見を平明な文章にて書き得たと自身でも感じられる記事とは、やはり、それなりに多くの方々に、そして継続的に読んで頂けている傾向があるように見受けられます。
しかし、そうした記事を読み返してみますと、不思議なことに『どのようにして、その記事内容を着想し得たのか?』がよく分からないことが多いのです・・(苦笑)。
それらは、おそらく当初、どちらかというと漫然と書いていたのでしょうが、興が乗るにつれて徐々に考え・思い付きが増幅していき、面白い先の展開の着想に至ったのではないかと思われます。
そして、こうした状態に至った自身とは、やはりそれなりに文章作成に没頭しており、以前のブログ記事にも書いたとおり『自身の客観視を許さない状況』にあるのではないかと考えます・・(笑)。
言い回し・表現によれば、こうした状態とは『自分になりきっている』・『忘我』・『集中している』などと称されるのかもしれませんが、しかし、こうした状態とは『他者の視線を気にしていない』という意味では、決して良いものとは評し難く、何かしら動物的、原初的と評しても良い状態ではないかと考えます・・(苦笑)。
また、そのようなことを考えてみますとニーチェがその著書『悲劇の誕生』にて述べている創造の源泉たる原初的な混沌の要素(ディオニュソス的)とそれに秩序を与える理知的な要素(アポロン的)との葛藤のことを思い起こさせます。
また、そこから次いで『創造的要素・創造力が疲弊・枯渇した社会とは、一見全てのものが衆目に適い、こぎれいになったともいえる社会なのではないだろうか?』とも考えさせられるのですが、しかし、実はこうしたことは現在の主に都市において理想的とも云える要素が兼ね備えられた状態をも示しているのではないかとも思われるのです・・。
おそらくこうした状態とは、さまざまな人間の為す行動・行事が形式化され、外見としては華やかでもあり、あるいは立派であるのかもしれませんが、徐々にそれらの背景・基層にある理念・思想といったものが忘却・形骸化され、そして、それに伴い『文明そのものの力』もまた経時的に損なわれていくのではないかと思われるのです・・。
また、それは昨今の科学技術の進化発展により、より多く見出すことが出来るようになった定量化による相対化といった一見科学的ともいえる視座を軸としてもまた、生じ得るのではないかと考えます。
それ故、特に現代の我が国においては、原初的と評されようが、衆目に適わなくとも、外見的なスマートさなどをあまり重要視しない創造に適した『場』が自然に発生するような社会全般における鷹揚さ・寛容さを取り戻した方が良いのではないかとも思われます・・。
そしてまた、こうしたことには社会における男性的要素と女性的要素の葛藤といったものが少なからず影響しているのではないかと考えますが如何でしょうか・・?
一方、こうしたことは、さまざまな地方においては、また多少事情が異なっているのかもしれませんが・・。
ともあれ、今回もまたここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨といった自然災害により被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。