2017年8月30日水曜日

20170830 書き続けることにより強迫観念から単なる観念へ・・文体の獲得?

A「対話の中にて自身のことを振り返り話す際、思い出されるように、かつての自身の状態が明瞭になることがあります・・。

これまでに何度か当ブログ記事にて書いたことではありますが2009年冬から2010年秋に掛けては自身にとってはいささか重過ぎる耐出来事が連続して生じました・・。

これら期間の私とは、対外的、表面的には【ある程度】まともには振る舞っているつもりでしたが、週末の散歩の際などは、視線を落とし、そうした状況を忘れるためかMP3プレーヤーにて音楽を聴きながら無心で鹿児島市街を歩いていたことが思い出されます・・。

それでも2013年の春頃には多少おかしくもなりましたが、しかしそれは、この週末の長い散歩が無ければ、それ以上にひどいことになっていたのではないかと思われるのです・・。

また同時に現在であれば、そうした(精神的に)危険な状態から完全に脱し、安全圏にいるというわけでもなく、現在は現在で『何かしら文章を書いていないとおかしくなってしまう』といった強迫観念にも近いものに支配されつつ、こうしてブログ記事の作成を継続しているとも表し得るのです・・(苦笑)。

しかし同時に、現在になり思うことは、こうして強迫観念らしきものに促されブログ記事を作成し続ける自身に対し慣れつつあるということであり、またそれを決しておぞましいものであるとは感じないということです・・。

そして、こうした感覚に完全に慣れ、そしてそれが自己同一化が為された時に、あるいは自身の文体といったものが得られるのではないかとも思われるのです・・。

あまり科学的、理路整然とした内容ではありませんが、整理、認識のための後付けの理論を考え得ない、持ち得ない内的な現象に対しては、斯様に、とりあえずのところは感覚に基づいた言語を以って書いてみても良いのではないかと考えます。

また、おそらく詩と理論の間にある認識の層とは、多くの場合、そのようなものではないかとも考えられます。

そして、そのように考え得ることにより、さきに書いた強迫観念らしきものは、そうであることを止めて、単なるニュートラルな観念へと変態・収束するのです【とはいえその収束のためにはある程度継続しなかれば安定化しないようです・・】。

さらに同時にその収束点あるいはその近いところに『文体の獲得』があるのではないかと考えることは特に不自然なことではないと考えますが、さて、如何でしょうか・・?


とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在までに生じた地震・大雨・水害といった一連の大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」