pp.123-126より抜粋
ISBN-10 : 4061596144ISBN-13 : 978-4061596146
周王朝は、前八世紀の中頃から名目の存在になり、前三世紀中頃、秦に滅ぼされるまで群雄が割拠する春秋戦国時代が続いた。諸侯の間を遊説して歩く諸子百家が現れたのがこの時代で、孔子も孟子もその中に姿を見せるし、扁鵲のような遍歴医もいた。この時代の文献に鍼灸治療が現れる(山田慶児)。いくつか例を拾ってみよう。
「孟子」離婁上篇に「今の王たらんと欲する者は、なお七年の病に三年の艾(もぐさ)を求むるがごときなり」。七年越しの病に、たった三年した乾かしていない艾を使うとは何事、「仁」は即効薬ではないぞ、というのである。孟子は前三七二~前二八九年の人。「荘子」雑篇の盗跖篇では孔子が、「病い無くして自ら灸するものなり」、この自分は余計なことをして痛い目にあう愚か者だった、こういって嘆く。孔子は孟子と同時代人であった。しかし、「荘子」の外篇、雑篇は後世に加えられたものらしい。
この二つから見ると、孟子も孔子も灸を知っていたのである。もっともこのどちらも、実際に灸を据えた話ではない。
鍼療法については「春秋左氏伝」(「左伝」)に記載がある。
「左伝」成公十年(前五八一)に、病膏盲に入る話がある。晋公の病床に招かれた医師が、「この病気は治療できない。膏の上、盲の下は灸も使えず、鍼も届かず、薬も効きません」と診断する。膏は心臓の下、盲は横隔膜の上と解釈されており、つまり「体のいちばん奥深いところ」である。
山田慶児によると、中国医学の特徴は、「第一に、鍼灸という特異な治療法が発達したこと、第二に、この鍼灸療法と結びついて医学理論が形成されていったこと、第三に、鍼灸医学とともに生まれた理論が薬物療法を中心とする医学の全体系の基礎理論へと発展していった」(中国医学の起源)岩波書店、1999)ことである。そうして「鍼灸を推力とする中国医学の形成過程は、戦国時代(前四○三~前二二一)から後漢(二五~二二〇)にかけて進行」した。
鍼灸医学は最初の理論体系として「黄帝内経」(「素問」と「霊枢」)と黄帝八十一難経」(「難経」を持っている。いずれも後漢末(二〇〇年前後)に成立した。「黄帝内経」のうち、「素問」が医学の基礎理論、つまり生理学乃至一般病理学であり、「霊枢」に鍼灸の理論がある。
薬物療法(湯液)の古典は「傷寒雑病論」(「傷寒論」と「金匱要略」である。これらは張仲景(二世紀の人)の著である。
ほかに「神農本草経」がある。これは「本草」といって、薬用植物学の書物であり、神仙思想、つまり道教の色彩が強い。
これらも「黄帝内経」とほぼ同じ時期に成立した。漢代は戦国の百花斉放が実を結び、中国文明の基礎があらゆる方面で作り上げられた時期である。医学もその一つであった。
小川鼎三「医学の歴史」(中公新書、一九六四)はおおよそ次のようにいう。-「内経」の医学(つまり鍼灸医学)は黄河流域の北方民族のものであった。中国北部は不毛の地が多くて薬用とすべき植物は少ないので、鍼灸のような物理的な刺激療法が用いられたのであろう。これに対して、張仲景の「傷寒論」は南方の揚子江(長江)付近に発達した医学なのである。
中国の地理的風土と文明・思想については、岡倉天心(「茶の本」第三章、岩波文庫、一九六一)の興味深い解釈を聞こう。
道教は、・・・南方シナ精神の個人的傾向を表していて、儒教という姿で現れている北方シナの社会思想とは対比的に相違があるということである。中国はその広漠たることヨーロッパに比すべく、これを貫流する二大水系によって分かたれた固有の特質を備えている。揚子江と黄河はそれぞれ地中海とバルト海である。幾世紀かの統一を経た今日でも南方シナはその思想、信仰が北方の同胞と異なること、ラテン民族がチュートン民族とこれを異にすると同様である。
北方黄河の流域と南方揚子江流域が、前者は「内経」医学、後者は「傷寒論」医学を生んだ。それがバルト海と地中海の沿岸に相当する、と考えると、私たちの想像は大いに刺激され、イメージがふくらむ。