ISBN-13 : 978-4121600745
ドイツが30年戦争の線から立ちなおるには、ほとんど1世紀を要した。この時代のドイツの惨状は、同時代の記録によると、たとえば人口は四分の三を失い、家畜類や財貨の損失はさらにはるかに大で、農業はもとの状態に回復するのに、ある地方では2世紀を要し、大多数の商業中心地は亡び、政治団体はあらゆる悪徳が蔓延していた。これらのすべては30年戦争に帰せられた。
今日では、かかる状況記述には誇張があると言われ、第一に、ドイツは1618年にすでに破壊の途上にあったこと、第二に当代の記録はかならずしもそのまま信頼しがたいことが指摘されている。君主たちは金融上の義務を避けるために、諸国の損害を言いたて、市民は税をまぬがれるために、すべて自国の状態をどぎつい極彩色で描いているという。たとえばスペイン政府に対して書かれた損害表には、ある地方では破壊された村の数が存在の知られている総数以上になっている。人口の減少もある程度までは一時的な移住によるものがあり、社会的にも破壊よりは移転による。
しかし、誇張があるにしても真実がないわけではない。人口の四分の三を失ったか、あるいはそれほどの率でなかったかにかかわりなく、それ以前にも以後にもドイツの歴史が経験しなかった全般的な災厄であったことは事実であり、挽回しがたい災厄という実感が一般的に広がっていたことはたしかである。すくなくとも戦後のドイツ再建の仕事に直面した人々には、これが一般的印象であったであろう。
スウェーデン軍だけでも約2000の城、18000の村、1500以上の町を破壊した、バイエルンは18000の家族と900の村を失った。ボヘミアは6分の5の村と4分の3の人口を失った、とそれぞれ主張した。ユルテムベルグでは住民の6分の1に、ナッサウでは5分の1に、ヘンネベルグでは3分の1に、ヴォルヘンビュッテルは8分の1に、マグデブルグでは10分の1に、オルミッツでは15分の1以下に減少した、という当代の記述は、伝説であるとしても、モンテーヌ将軍はナッサウで「自分自身の目で見たのでなかったら、一地方がかくも荒らされ得るものとは信じなかったであろう」と述べている。(ウェッジウッド「30年戦争」1957)。
哲学者の課題ー再統合
しかし、戦争の直接の損害より根本的に重大であったのは、社会秩序の崩壊、権威や宗教の不断の変化動揺、それがもたらした社会の解体である。これがまさに思想家の直面する問題であり、これの再建、復興が思想家の避けがたい課題となる。われわれの哲学者ライプニッツがあえて講壇の生活を捨て、広い世間に出て活動することを意欲した動機には、かかる背景が想定されてよいであろう。この課題は哲学と宗教と政治にまたがる。具体的には、分裂対立した宗教的信条の再統一、再統合、それにつながる政治的問題である。
これを根本的に基礎づけることは哲学の使命である。これらいっさいにわたるものが、ライプニッツがみずからに課した問題である。彼の哲学が志向するものはこれなしには理解しがたいであろう。「永遠の相のものに」人間と世界を観想することを説いたスピノザが、「神学・政治論」「国家論」を書かざるを得なかったのも、同一の哲学的使命感によるであろう。しかし、それをいかなる哲学にもとめるかは、哲学者がいかなる人間であるかによって決定される。
ライプニッツの遠大な世界史的活動は、マインツ選帝侯に仕えることによってまずその端緒を見いだした。これ以後ライプニッツの活動には、全生涯を通じて、常に宗教、政治、哲学・科学が内面的に相交錯しており、それらがずれも独立分離していないことが彼の全活動の根本的性格である。そして、それが常に世界的規模において、「普遍的universal」な見地において行われることが、もっとも性格的なところである。
彼が君主に仕えたのは、経済的に独立でなく、しかしスピノザのようにつつましい孤独な思索者たることに満足せず、世間の中で活動することを意欲したからではあるが、より根本的な動機としては、偉大な君主をとおして自己の大志を実現しようとしたのであろう。彼の全生涯を見ると、かならずしも一国一君主に隷属した忠実な廷臣ではない。それゆえ、彼の天才を洞察することのできた君主には信頼されたが、これを理解し得ない君主には白眼視された。結局、真に彼を用いる英邁な大国の君主に出会うことのできなかったのは彼の悲運であった。彼の真の理解者・共感者は宮廷の貴婦人だけであった。