2024年7月18日木曜日

20240718 筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで pp.251-253より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで
pp.251-253より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073612
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073617

 17世紀に初期の顕微鏡を用いて、自然界の事物や動物の組織の観察が行われた。ネーデルラントのレーウェンフクはロンドンの王立協会に多数の書簡を書いて、その観察結果を報告した。その中にたしかに酵母など微生物の観察が含まれているが、それが発酵や病気の原因と結びつけて考えられることはなかった。

 発酵は、古くからパン、ワイン、ビールなどを造るときに起こる現象として知られていた。体内での食物の消化や吸収の過程も、しばしば発酵になぞらえていた。微生物の存在とその働きは、19世紀に発酵が突破口となって明らかにされた。まずドイツのテオドール・シュヴァンは、顕微鏡で酵母を発見したその作用で発酵が起こると発表した(1837年)。しかしこの発酵の酵母説は、有力な化学者のイェンス・ベルセリウスとリービヒによって非難され、シュヴァンはその後の研究を断念した。

 フランスのリール大学の化学教授パストゥールは、ビート糖の発酵障害について相談を受けて研究し、アルコール発酵が微生物の作用により起こることを明らかにし(1860年)、その微生物を酵母と呼んだ。また空気中に存在する微生物が腐敗の原因であり、微生物が自然発生的には生じないことを実験的に証明した(1862年)。さらに発酵についての研究を発展させ、ワインの醸造(1866年)およびビールの醸造(1876年)の研究を発表し、パリのソルボンヌ大学教授になった。パストゥールの研究は、リスターによる外科手術の防腐法の開発に大きなヒントを与えた。

 病気の原因となる微生物は、ドイツのコッホによって発見された。コッホはゲッティンゲン大学で医学を学び、地方の小都市で医官として働きながら炭疽の研究を行い、炭疽菌の芽胞形成と病原性を明らかにした(1876年)。創傷感染症についての研究に取り組んで、創傷に続いて起こる敗血症で膿血症が、微生物の感染によってこることを動物実験と細菌学的検索によって示した(1878年)。

 1880年にベルリンの帝国衛生院に職を得て研究を開始、細菌の染色法や培養法を開発して細菌学の発展に大きく貢献し、当時の重大な感染症であった結核の原因菌を発見した(1883年)。ドイツの調査隊を率いてエジプトとインドでコレラの調査・研究を行い、コレラ菌を発見した(1883年)。ベルリン大学の衛生学教授に任じられ(1885年)、新たに設立された感染症研究所の初代所長になった(1891年)。結核菌の培養濾液からツベルクリンを生成し結核の特効薬として発表したが、これには治療効果がないことがわかり、現在では結核菌の感染の診断に用いられている。1905年にノーベル生理学医学賞を受賞した。

 微生物が感染症の病原体として特定できる条件を示した指針として、「コッホの原則」がよく知られている。コッホ自身が明確な形で述べたものではないが、コッホの弟子のフリードリッヒ・レフレルがジフテリアの病原体についての論文(1884年)の中で、「①疾患部位において微生物が典型的に証明される。②疾患部位で病変に意味のある微生物が分離され純粋に培養される。③(培養した微生物を)接種して病気が再び発生する」という三条件を挙げた。コッホはコレラの病院についての論文(1884年)でこれを捕捉して、微生物が病原体であることを証明するために「接種した動物から得た微生物を健康な個体に接種して同じ病気が生じる」ことが必要であると述べた。これを加えた四項目が、「コッホの原則」として広く知られている。

 コッホの衛生学教室および感染症研究所では、多くの研究者が集まり病原菌の研究を行った。ベーリングと北里柴三郎はジフテリア菌(1883年)と破傷風菌(1889年)を発見し、北里は日本に帰国してから香港でペストの調査をしてペスト菌を発見した(1894年)。パウル・エールリヒは細菌の染色法を開発し、後に抗体の特異性を研究して免疫学の基礎を築き、ゲオルグ・ガフキーはコッホの後任として伝染病研究所所長を務め、結核の等級分類表である「ガフキー表」を開発した。

 さらに病原体の発見を通して感染症に対する治療と予防への道が拓かれた。赤痢菌は志賀潔によって発見され(1897年)。病原体の発見によって、病気は特定の原因によって生じるという確信が生れ、その原因を解明するための研究が進められていった。

 感染症の予防のために最初に編み出された方策は、牛痘の接種による天然痘の予防、すなわち種痘である。これは19世紀末に病原菌が発見されるよりも前の1796年に、イギリスのジェンナーにより始められた。パストゥールは病原体を弱毒化して接種、その病原体による病気の発症を予防・治療する方法を開発し、ジェンナーの栄誉を称えて「ワクチン」と呼んだ。

20240717 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.65‐68より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913

 翌日の二月二十四日、私が寝室から出ていくと、街から帰った料理女に出会った。この善良な女は気が全く動転していて、涙声でわけのわからぬことを私に口走っていた。私には理解できなかった彼女の言葉のなかで、ただ政府が貧しい人びとの虐殺を実行させたということだけがわかった。私はすぐに下りて行き、街路におり立つや革命の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる自分に初めて気がついたのだった。街路の中央には人影がなく、商店は一軒も店に開けていなかった。馬車も散歩の人影も見えなかった。いつもは聞こえてくる路上の呼売り人の声もなかった。戸口で隣人同士が小さなグループに分かれて、うろたえた顔をして、ひそひそと話し合っていた。誰の顔も不安もまた怒りのために血の気を失っていた。私は国民軍の一兵士とすれちがったが、彼は銃を手にして、はや足で悲劇を演じているような姿をして通っていった。私は彼に近づいて言葉をかけたが、彼からは何も知ることができなかった。ただやはり政府が民衆を虐殺したということ以外は(ただ彼はそれに付け加えて、国民軍がそのことの処理に当ることができるだろうと言った)。こうして同じ事実の指摘がくり返されるだけだったが、私には何の説明にもなっていなかった。私は七月王政の堕落の性格を充分に知っていて、そこで残忍な行為が行われることなど全くありえないということについては、確信をもてたのだ。私は七月王政を最も腐敗の激しいものの一つとみなしていたが、また同時に、これまでにみたことがないほど、残忍な性格をもたないものだともみなしていた。そして私は、どんな噂の力をかりて革命が進展して行ったかを示しておきたいがためにだけ、この民衆を政府が虐殺したという言葉を報告しているのである。

 私は隣の通りに住んでいるボーモン氏のところに駆けつけた。そこで夜中に国王がボーモン氏を呼び出したことを知った。ついで出かけていったレミュザ氏のところでも同様の情報を得た。最後に会ったコルセル氏は事の経過を説明してくれた。しかし、それはまだ混乱したものだった。というのも革命のなかの都市にあっては戦場にあるのと同じようなものであって、それぞれの人は自分の目撃した偶発的な出来事を、これこそ革命の事態だと受け取るからである。私はコルセル氏からキャプシーヌ大通りでの銃撃事件のことを知らされ、またこの無益な暴力行為が原因となり口実となって蜂起がいきょに発生したことを知った。モレ氏がこうした状況で内閣を引き受けることを拒否したこと、ティエール、パロの諸氏と、それに最終的に内閣に加わることを引き受けた彼らの友人たちが宮殿に呼ばれたことなども知ったが、これらの事実はもうよく知られていることなので、立入って書くつもりはない。私はコルセル氏に、大臣たちは人心を鎮めるためにどのような動きをするつもりなのかとたずねた。すると氏は、「レミュザ氏から聞いたところだと、軍隊のすべてを後退させ、パリ市内を国民軍で溢れさせる計画だということだ」と言ったのだった。この表現は氏自身のものである。私は絶えず指摘してきたのだが、政治においては過去の記憶があまりに大きいために、しばしば人は身を滅ぼすことになったのである。