2017年8月8日火曜日

20170808 「情報社会における歴史認識と表現の意義」

 昨日は、一休みした後に深夜の作業を予定して午後11時頃に寝たが、疲労が溜まっていたのか、目覚めたのは早朝5時だった。そのまま起床して記事を作成するのも面倒に感じ、結局7時まで寝続けた。

この経験から、記事作成にはある程度決まった時間を設けるべきだと再認識した。一方で、一昨日(8月6日)は偶然2本の記事を投稿していたため、現在の進捗としては1日1記事というペースを維持しているとみなせる。特に問題視せず、今後も記事作成を続けていくつもりである。

そんな中、昨日の間にブログの総閲覧者数が24万人に到達した。これまで読んでくださった方々のおかげで、ここまで書き続けることができたと感謝している。一方で、世の中には桁違いに多くの読者を持つブログが数多く存在することは承知している。しかし、画像や動画といった閲覧数を増やす要素が乏しく、流行に迎合することもなく、自分が書きたいことを書き続けてきたブログであるにもかかわらず、これだけ読んでいただけたのは望外の僥倖であり、自分にとって大きな励みとなっている。

目先の目標である800記事の到達まで、どれだけの方々に読んでいただけるかは未知数だが、少なくとももう少しは書き続ける予定である。これからもよろしくお願いしたい。

一昨日の記事では『コンラッド短編集』の「武人の魂」の冒頭を抜粋引用した。この文章は19世紀的な時代精神が色濃く感じられるため選んだものであるが、著者ジョセフ・コンラッドが当時の世界を実際に生きた経験があったからこそ、日本語訳でも血の通った口語文として表現されていると考えられる。

また、過去と現在を行き来する歴史的な文脈を持つ文章や物語の書き方は、日本でも見られるものの、特に近年では深みを持つものが減少しているように思える。これは、作中に描かれるような実体験を持つ人が減少していることが一因ともいえるが、それだけではなく、歴史に対する安易な認識が広がっていることも影響しているのではないかと感じる。ネット社会の普及がこうした風潮を助長しているのだろうか。

歴史に対する安易な認識は、内外の問題に関する浅薄な思想や考え方と結びつき、輿論形成に影響を与える傾向がある。この現象自体は避けられないとしても、その結果が必ずしも良い方向に進むとは限らない。このような状況こそ、歴史を学び、そこから得られる洞察を大切にすべき理由ではないかと思う。

ここで一つの考えを思い出す。それは「日本人は外来文化を摂取する際、その背景文化から学ぶのではなく、その文化に特殊に認められる部分だけを切り取り、自分たちの都合に合わせて改変する傾向がある」という指摘である。これを踏まえると、過去の文化や歴史に対しても同様に、十分に理解しないまま、独自の文脈で取り扱っている場合が多いのではないかと考えさせられる。

このような現象が我々の文化的態度にどう影響しているのか、そしてそれが未来にどのような結果をもたらすのか、改めて考えていく必要があるだろう。
 
ともあれ、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。
*20241201にChatGPTを用いて添削および少しの加筆修正