数日前に投稿したブログにより投稿記事数が260に達しました。また、それと関連するものであるかわかりませんが、昨日のブログ閲覧者数もいつになく伸びました。
これまでブログ記事を読んでくださっている方々に支えられ、記事を書き続けることが出来ましたが、ここ最近、過去に作成したいくつかの記事を読んでみますと、それらの中で、私が世間の動向(の一側面)をある程度理解しているのではないかと思わせるような内容も見受けられます・・(笑)。
とはいえ、無論、私はそうしたことを精確に理解しているわけではなく、単に読んでいる本、様々な場所にて得た直感、感覚に従い、記事を書き続けている次第です。
その意味において、現在再び読み進めている野上弥栄子著「迷路」とは、かなり面白く、また、そこに描かれている内容とは、現代の我が国の社会においても通じる要素が少なからずあるのではないかと思われます。
そのように書きますと、その著作内の現代社会に通じると思われる具体的な内容を抜粋したいという強い誘惑にかられますが、この著作につきましては、興味を持たれた方々がご自身で実際に読まれ、その指摘および判断をなさっていただきたく思います(私もまだ上巻のみしか読了しておりませんし・・)。
また、これも前掲著作を読んでいる際に不図思い出したことではありますが「一つの国が堕落、衰退してゆく過程とは、ほとんどの場合、上層部の方から堕落、腐敗してゆく」といわれております。
このことは、現在の様々なレベルの組織を考える上において、なかなか示唆するものがあるのではないかと思われます。
そして、おそらく様々な国々における歴史の変わり目、転換の契機とは、こうしたことが否応なく生じていると社会において広く認識されはじめることから生じるのではないかと思われます。
また、我が国の場合、社会における同調圧力・凝集性が強いことから、ある程度の段階までは堕落・腐敗として(表立っては)認識されないのですが、一度そのような認識が社会において共有されるようになりますと、そこから一気に大きな変化に至る傾向があるのではないかと思います。
このことをたとえてみますと脆性材料における応力‐ひずみ曲線の特徴と類似したような特徴を示すのではないかと思いますが、如何でしょうか?」
ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
2016年4月10日日曜日
20160409 周辺機器の進化と学問の価値との関係・・
A「ここ最近のブログの一日の閲覧者数は、以前とあまり変わらず、大体300~500人程度となっております。
以前用いていた対話形式の文体から現在の独白形式の文体に変えたことにより、多少閲覧者数に変化が生じるかと思いましたが、現在のところ特に大きな変化はありません。
ただ、これは気のせいであるかもしれませんが、閲覧された記事の動向を見ておりますと、以前に比べ、記事を深く読まれているのではないかと思うことがあります・・。
そして「深く読む」といいますと、現在再び読んでおります「迷路」上巻は100頁程度まで進みました。
今回のこの読書においては、以前あまり深く考えず読み飛ばしていた事柄、たとえば作中に出てくる現在では聞くことがない語句、事物の意味をインターネットなどで調べたりして読み進めています。
そうした、一種精読に近い読書、読解とは、多少面倒くさい反面、新たな疑問、発見などが出来、なかなか面白いものであるとも思います。
そういえば、以前より、インターネットなど情報技術の進化、普及に伴い、大学など高等教育機関での文系学問の意味、価値が大幅に減じた、減じるといった内容を何度か聞いたことがありました。
たしかにインターネットの普及以前であれば、さきに記した精読、読解の作業においては、図書館等を利用し、記載されている語句、事物の意味、背景を調べ、解釈し、読み進めてゆくのが一般的であったと思われます。
それがその後、PCあるいはその端末機器を広く一般的に使用することにより、かなり簡便にこうした精読、読解作業が概ね出来るようになったことは、たしかに「長足の進歩」であるとは思います。
しかし、そうであるからといって文系学問の意味、価値が減じたということにはならないと思います。
それは一般的に考えてみて、理系の分析機器が進化し、その操作が簡便になったからといって、理系学問自体の意味、価値が減じることがないのと同じことではないかと思います。
それ故、文系学問の場合、周辺機器の進化発展により様々な情報の入手が簡便になるからといって、その学問自体の意味、価値が減じると考えることには、そうした評価をくだす方々が当初よりその学問分野に価値を認めず『より根源からの能動的な興味』を持ちえないことから、そのような評価になりやすいのではないかと思います・・。
そして、こうしたことは私を含め、我々の多くが様々な事物に対し、そうした評価を比較的安易にくだしているのではないかと思われます・・。
また、それに加え、そうした評価とは、インターネットの普及により、個々人が、より一層、そうした評価を諸事物に対し、くだし易くなってきているのではないでしょうか?
その意味において、かなり原始的、単純であるのかもしれませんが、私は紙媒体の書籍およびその読解には何かしら(今現在不可知な)大きな価値、意味があるのではないかと考えています・・。」
ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
以前用いていた対話形式の文体から現在の独白形式の文体に変えたことにより、多少閲覧者数に変化が生じるかと思いましたが、現在のところ特に大きな変化はありません。
ただ、これは気のせいであるかもしれませんが、閲覧された記事の動向を見ておりますと、以前に比べ、記事を深く読まれているのではないかと思うことがあります・・。
そして「深く読む」といいますと、現在再び読んでおります「迷路」上巻は100頁程度まで進みました。
今回のこの読書においては、以前あまり深く考えず読み飛ばしていた事柄、たとえば作中に出てくる現在では聞くことがない語句、事物の意味をインターネットなどで調べたりして読み進めています。
そうした、一種精読に近い読書、読解とは、多少面倒くさい反面、新たな疑問、発見などが出来、なかなか面白いものであるとも思います。
そういえば、以前より、インターネットなど情報技術の進化、普及に伴い、大学など高等教育機関での文系学問の意味、価値が大幅に減じた、減じるといった内容を何度か聞いたことがありました。
たしかにインターネットの普及以前であれば、さきに記した精読、読解の作業においては、図書館等を利用し、記載されている語句、事物の意味、背景を調べ、解釈し、読み進めてゆくのが一般的であったと思われます。
それがその後、PCあるいはその端末機器を広く一般的に使用することにより、かなり簡便にこうした精読、読解作業が概ね出来るようになったことは、たしかに「長足の進歩」であるとは思います。
しかし、そうであるからといって文系学問の意味、価値が減じたということにはならないと思います。
それは一般的に考えてみて、理系の分析機器が進化し、その操作が簡便になったからといって、理系学問自体の意味、価値が減じることがないのと同じことではないかと思います。
それ故、文系学問の場合、周辺機器の進化発展により様々な情報の入手が簡便になるからといって、その学問自体の意味、価値が減じると考えることには、そうした評価をくだす方々が当初よりその学問分野に価値を認めず『より根源からの能動的な興味』を持ちえないことから、そのような評価になりやすいのではないかと思います・・。
そして、こうしたことは私を含め、我々の多くが様々な事物に対し、そうした評価を比較的安易にくだしているのではないかと思われます・・。
また、それに加え、そうした評価とは、インターネットの普及により、個々人が、より一層、そうした評価を諸事物に対し、くだし易くなってきているのではないでしょうか?
その意味において、かなり原始的、単純であるのかもしれませんが、私は紙媒体の書籍およびその読解には何かしら(今現在不可知な)大きな価値、意味があるのではないかと考えています・・。」
ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
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