2017年4月19日水曜日

20170419 具象よりも抽象の方が時としてより写実的・・観念的?【600記事到達】

以前のブログ記事に書いた通り、本格的に暖かくなる前にどうにか600記事に到達することができました。

本日よりしばらくブログ記事作成を止めておこうと考えましたが、いざPCの前に座り、閲覧者数および読まれた記事を眺めますと、不思議なことにまた何か書いてみたいと思い始めるのです・・(苦笑)。

さて、ブログ当初にて述べたいくつかの銅鐸に関しての記事に関連し思ったことですが紀伊半島(主に和歌山県下)にて出土した銅鐸とは、相対的に水稲耕作における可耕面積が広く、多くの人口が居住可能である(県北部の)紀の川下流域にて出土した銅鐸の数が多くなく、またそれら出土銅鐸とは古段階の小、中型(~50㎝程度)のものが多いと云えます。

それに対し、同可耕面積が相対的に狭小であり居住可能人口が多いとは考えられない中~南紀に属する南部川以南の各河川(富田川を南限とする)の下流域にて出土した銅鐸とは、概して、出土数が多く、そして新段階、大型のものが多いと云えます。

その他、幾つかの地域における事例を検討することにより、弥生時代の銅鐸祭祀文化についてある程度普遍的に云えることは、当初、その鋳造技術が十分に進化発展していなかったことから、小型の銅鐸が石による鋳型を以って製作され、それが貴重な祭器として、既存の比較的大きなムラ、集落に一つ、二つ程度ずつ配付されたのではないかということです。

その後、銅鐸祭祀集団の領域拡大、および鋳造技術の進化発展、具体的には、製作に用いる鋳型が石製から砂製に変化したことにより、随意に大型化、多量生産化することが可能となり製作された新式大型の銅鐸とは、新たに開拓、入植したムラ、集落毎に対し配付され結果的に、前段階に比べ相対的に多くの銅鐸が配付されたのではないかと考えます。

そして上記のような、ある程度具体的な歴史の流れ、様相を認識し、出土した個々の銅鐸を検討する際の指標として挙げられることは、その大きさ、形状、装飾の程度およびその傾向などであると考えます。

そして、これら要素を総合的に検討考察することにより、個々銅鐸の凡その出土地域および製作年代とは見当をつけることが出来るのではないかと考えます。

そして、こうしたことは、おそらく銅鐸のみならず、石器、墳墓、他の青銅製祭器(銅鏡、銅矛、銅剣、銅戈など)、古墳造営様式、武具、生活道具などにおいても同様に応用することが可能ではないかと考えます。

そして、そうした見方にある程度慣れてきますと、今度は更なる興味対象への相転移らしきものが生じ、具体的なモノから、その地域、国などの性質、特徴といった観念的な要素への興味へと至ることが少なからずあるのではないかと思われます。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨2016年に発生した熊本、山陰東部そして福島県周辺における地震によって被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。