2025年7月14日月曜日

20250713 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻 pp.370-372より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻
pp.370-372より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504644
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504649

 絶対主義はヨーロッパの大半ばかりかアジアにも及び、産業革命によってもたらされた決定的な岐路に際しても、同じような工業化を拒んだ。中国の明と清、そしてオスマン帝国の絶対主義がいい例だ。宋(960-1279年)の時代の中国は、多くの技術革新で世界を牽引した。時計、羅針盤、火薬、紙と紙幣、磁器、製鉄用の溶鉱炉などを発明したのはヨーロッパより早かった。また、ヨーロッパ諸国とほぼ同時期に、紡ぎ車と動力としての水力の利用法を独自に開発していた。その結果、1500年当時の中国の生活水準はヨーロッパに引けをとらなかったものと思われる。何世紀にもわたって、中国は実力主義で選抜された官僚によって運営される中央集権国家でもあった。

 しかしながら、中国は絶対主義の国であり、宋の成長は収奪的制度によるものだった。皇帝以外には集団を代表する政治組織は存在せず、イングランドのパーラメントやスペインのコルテスに当たるものが社会にはまったくなかったのだ。中国では商人はいつも身分が不安定で、宋の偉大な発明も市場のインセンティヴによって促進されたわけではなく、政府の保護、ときには命令によって世に送り出された。商業化された発明品はほとんどなかった。宋に続く明や清のじだいには、国家の締めつけがさらに厳しくなった。こうしたあらゆる事態の根底にあったのは、おなじみの収奪的制度の論理だ。収奪的制度を統括する支配者の大半と同じく、中国の専制君主は変化に反対し、安定を求めていた。とどのつまりは創造的破壊を恐れていたのである。

 これは国際貿易の歴史に如実に表れている。アメリカ大陸の発見および国際貿易の運営法が、近代ヨーロッパ初期の政治闘争と制度改革において重要な役割を演じたのは、すでに見たとおりだ。中国では、一般的に民間の商人が国内の商取引を行っていたが、外国との交易は国の独占だった。1368年に明が国を統一すると、初代皇帝の洪武帝は30年にわたって君臨した。洪武帝は外国との交易が政治的にも社会的にも安定を損なうと懸念し、政府が運営し、朝貢があるときのみ外国との交易を許可した。商業活動は認めなかった。朝貢使節団なのに商業活動を行おうとしたとして大勢の人間を処刑さえした。1377年から1397年にかけては、外洋を航行する朝貢使節団が禁止された。洪武帝は民間の商人が外国人と取引することを認めず、中国人が外国に渡ることも禁じた。

 1402年に即位した永楽帝は、政府が主体となる交易を大々的に復活させて、中国史上よく知られた一つの時代をスタートさせた。永楽帝の支援を受けた提督の鄭和は、東南アジア、南アジア、アラビア、アフリカまで大艦隊を率いて遠征を六度実施した。中国は、長年の交易関係からこれらの場所について知っていたが、これほど大規模な遠征は初めてだった。最初の艦隊は二万七八〇〇人の乗組員と、宝船六二隻、小型船一九〇隻から成り、小型船のなかには飲み水を運ぶ船、食糧を運ぶ船、兵士を運ぶ船があった。ところが、1422年の六度目の航海後、永楽帝はいったん遠征を中止した。後継者である洪煕帝(在位1424-1425年)の時代も航海は行われなかった。洪煕帝は早世し、宣徳帝が即位した。宣徳帝1433年に鄭和に最後の航海を許可したものの、その後は外国との交易をいっさい禁止した。1436年には、遠洋航海船の建造さえ違法となった。海外交易禁止令は1567年まで解かれなかった。

 こうした一連の出来事は。社会を不安定にさせかねない多くの経済活動を禁じた収奪的制度の氷山の一角にすぎないが、中国の経済発展に根本的な影響を及ぼすこととなった。国際貿易とアメリカ大陸の発見がイングランドの制度を根底から変えつつあったまさにその時期に、中国はこの決定的な岐路に背を向け、内向きになっていった。この内向きの姿勢は1567年まで変わらなかった。明は1644年にアジア内陸部の満州族である女真族によって滅ぼされた。彼らは清を興した。その後、政治的にきわめて不安定な時期が続いた。清は財産と資産を大量に没収した。