2022年5月3日火曜日

20220503 株式会社講談社刊 池内恵著「現代アラブの社会思想」 (講談社現代新書)pp.208‐210より抜粋

株式会社講談社刊 池内恵著「現代アラブの社会思想」 (講談社現代新書)pp.208‐210より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061495887
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061495883

終末的争闘

 これらの人間社会や自然界の秩序を乱す前兆に続いて、あるいは並行して、第二の種類の前兆が生じるとされている。ここでは救世主や偽救世主といった超自然的存在が登場してくる。この終末的争闘には雑多な要素が混在しており、諸要素間の相互関係は明確ではないが、(1)救世主マフディーの到来、(2)偽救世主ダッジャール(キリスト教のアンチキリスト)の到来、(3)ヤージュージュ(キリスト教でいうゴグとマゴグ)の出現、(4)救世主イーサー(イエスの到来)、(5)終末の獣の出現、といった要素からなる。現代の終末論はこれらの象徴を縦横に解釈し、国際社会に関する独自の理解を発展させている。その「ハディース集」における典拠えお列挙しておきたい。

(1)救世主マフディー

「救世主マフディー」は、ムハンマドの属するクライシュ族から現れるものとされる。

預言者ムハンマドはおっしゃった。

「マフディーは私の子孫の一人である。彼は秀でた額と鉤鼻を持つ。彼は不正と抑圧に満ちた時代に現れて、地上を正義と公平さで満たすだろう。彼の支配は七年間続く」(「アブー・ダーウドのハディース集」)

 マフディーは「富を分配し」、その統治は預言者の慣行(スンナ)に則ったものであるとされる。また、マフディーは平和と繁栄をもたらし、作物が豊富にとれ、イスラーム教が強固に確立され、イスラーム教徒の共同体が強勢を誇る時代が到来するという。しかしマフディーの時代がいつ到来し、如何にして終わるのか、マフディーと終末の到来はどう関係しているのかといった点は「ハディース集」では明らかにされない。神学者の議論では、偽救世主ダッジャールと救世主イーサーの到来に先立つものとされている。

 このような「ハディース集」の典拠に想を得て、イスラーム史上には、しばしばマフディーを名乗る人物が現れる。19世紀後半のスーダンで起こった「マフディーの反乱」では、ムハンマド・アフマドという指導者が、自らをマフディーと称して尊崇を集めた。

(2)偽救世主ダッジャール(アンチキリスト)による「善と悪の価値転倒」

 救世主マフディーや、次に出てくる救世主イーサーといった「善」の勢力に対抗する絶対悪として「ハディース集」で想定されるのが、「偽救世主ダッジャール」である。偽救世主ダッジャールの表象にはキリスト教黙示文字のアンチキリストの影響が強くみられる。ダッジャールは「長く濃い髪を持った左目が見えない片目の男」であり、その額には「カーフィル(不信仰者)という文字が書いてあるとされる。

 ダッジャールの特徴は「善と悪」の価値を転倒させるところにある。人々に「偽りの善」、「偽りの繁栄」、「偽りの平和」を示して信じさせ、神の示した道から踏み誤らせようとするものと信じられている。これが現代の終末論に取り入れられ、アメリカやイスラエルをダッジャールと断定し、それらが提示する平和や繁栄を宗教的な見地から拒絶する根拠とされるようになる。


20220502 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.93-96より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.93-96より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

1898年、スーダンの首都ハルツームとナイル川を挟んで西岸に位置するオムダーマンで、チャーチルは英軍による最後の騎兵隊の突撃に参加した。またしても植民地の抑圧者の側で、イギリスの支配に異を唱えたスーダンのイスラム教徒マフディー軍の反乱の鎮圧支援を行った。マフディー軍の最も大きな不満の一つは、黒人の奴隷制度を廃止しようとするロンドン政府の動きであった。このときも母ジェニーはチャーチルが兵隊兼レポーターとして配属されるよう奔走した。軍部の上層部にとっては不愉快な根回しである。しかもチャーチルの役割は重要度を増していた。ブラッド卿よりもはるかに隆々とした口ひげを蓄えたキッチナー将軍にスーダンのイスラム教徒の軍隊の場所を実際に告げる偵察役となったのである。

 作戦の目的は、イスラム教徒の指導者を敗退させ、チャールズ・ゴードン英大佐の殺害の恨みを晴らすことだった。13年前、ハルツームで大佐が無残に串刺しにされた事件は、当時の世界に衝撃を与えた。1898年9月2日午前8時40分、チャーチルは総勢6万人のダルヴィーシュ軍に向って馬を走らせていたが、すでに英軍が彼らを1時間以上にもわたって銃撃していた。チャーチルとその部隊は150人にのぼる土着の槍兵軍を相手にするものと思ってやってきたが、敵はライフル銃兵であった。

 ダルヴィーシュ軍は突然ひざまづき、イギリス軍槍騎兵の別部隊に発砲を開始した。どうすべきか?逃げるか、それとも攻撃するか?イギリス軍は攻撃することを選んだ。チャーチルは、ダルヴィーシュ軍の方向に100ヤードもない場所を担当していたが、自分が12人もの槍兵たちでぎゅうぎゅうの谷間に突進していっていることに気づいた。

 そこで彼は何をしたのか?もちろん戦い続けたのである。ひどい混戦で、ダルヴィーシュ軍の多くがボウリングのピンのようにひっくり返っていった。チャーチルはマウザー銃を10発放ち、自分も馬も無傷で攻撃を終えた。峡谷を突き抜け、ダルヴィーシュ軍と英軍とが互いに切り刻むなかを動き回った。

 チャーチルは「敵の兵士に乗りつけ、ピストルを顔面めがけて発射し、数人を殺害した。3人は確実に死んだが、2人は重傷、残る1人はたぶん逃げおおせただろう」。こうして書くと、戦闘が一方的であったような印象を持たれるかもしれない。結局のところ、英軍にはマキシム機関銃があり、敵を持っていなかった。 

 しかし、そう考えるのは戦闘の危険性を大きく過小評価している。イギリスの兵士310人のうち、21人が命を落とし、49人が負傷した。チャーチルはのちにこう語っている。「私の一生において最も危険な2分間だったといっていいだろう」。

 いや、果たしてそうだったのだろうか?チャーチルはこの後で第二次ボーア戦争(1899~1902年)で戦い、幾度となく屈強なオランダ人農夫たちから砲火を浴びた。オランダ人はパシュトゥン人やダルヴィーシュ軍よりも射撃が上手であったし、より優れた武器を持っていた。チャーチルとボーア人の戦いの全容についてここで繰り返す余裕はないが、複数の本が出ている。少なくともそのうちの二冊はチャーチル自身の筆によるものである。

 つまるところチャーチルは24歳のレポーターとして、このイギリスにとって不幸な戦争に参加したのである。この戦いで、南アフリカの歴史小説家ウィルバー・スミスが書いたアフリカ南部の草原を舞台とする小説のページから出てきたような、奇妙な声を発するひげもじゃの奴らが、ついに新聞の一面を飾ったのだった。

 チャーチルは南アフリカのナタール植民地のコレンソと呼ばれる場所まで装甲列車に同乗した。敵に攻撃を受けて、列車は脱線。このときチャーチルは攻撃の的になりながらきわめて冷静に振る舞い、自分自身の安全を顧みず反撃した。毎度のことながら、弾丸を浴び、毎度のことながら、奇跡的に生き延びた。いったんは敵に捕まったが、捕虜収容所から逃亡し、貨物列車に飛び乗って、森に隠れた。ハゲワシに驚かされ、炭鉱に隠れ、ロレンソ・マルケス(現在はモザンビークの首都、マプト)にたどり着いたときには英雄として歓迎を受けた。

 その後チャーチルは首に懸賞金をかけられた状態で自転車部隊と同行してプレトリアを抜け、デュウェツドープという町で再び撃たれてあやうく殺されそうになった。さらに第二次ボーア戦争のダイアモンド・ヒルの戦いでは「人並みはずれた勇気」を見せた・・・。読者諸氏はそろそろおわかりだろう、私がこの章でお伝えしたかったことが。

 さらに続けてもいい。1915年に陸軍に入ると、ガリポリ戦の後、西部戦線に向かい、膠着状態の塹壕のあいだにある中間地帯に36回も出ていった。時にはドイツ戦線にあまりにも近づいたために、敵の会話が聞こえるほどだったという。チャーチルは爆弾や弾丸にいかに無頓着だったかという話もできるが、もう十分おわかりだろう。

 チャーチルは、青年時代、というより一生を通じて、並外れた勇敢さを見せた。彼に向ってどれほど多くの弾やミサイル弾が発射されたことだろう?1000発?自分の手で何人を殺したのだろう?12人?いや、おそらくもっと多いだろう。ナポレオン戦争で軍功を重ねたウェリントン公爵以降、チャーチルほど実戦を経験した首相はいない。暴力で歯向かってきた途上国の戦闘員そしておそらく非戦闘員に対して個人的に殺意を行使した首相はいない。

 チャーチルのように四つの大陸で銃撃を受けた首相もいない。ここまでくれば、賢明な読者諸氏には、チャーチルの勇敢さは疑いないものと納得していただけるだろう。とはいえ、なぜ彼がそのような性格だったのかを知りたいとも思われるだろう。