ISBN-10 : 4833421674
ISBN-13 : 978-4833421676
1898年、スーダンの首都ハルツームとナイル川を挟んで西岸に位置するオムダーマンで、チャーチルは英軍による最後の騎兵隊の突撃に参加した。またしても植民地の抑圧者の側で、イギリスの支配に異を唱えたスーダンのイスラム教徒マフディー軍の反乱の鎮圧支援を行った。マフディー軍の最も大きな不満の一つは、黒人の奴隷制度を廃止しようとするロンドン政府の動きであった。このときも母ジェニーはチャーチルが兵隊兼レポーターとして配属されるよう奔走した。軍部の上層部にとっては不愉快な根回しである。しかもチャーチルの役割は重要度を増していた。ブラッド卿よりもはるかに隆々とした口ひげを蓄えたキッチナー将軍にスーダンのイスラム教徒の軍隊の場所を実際に告げる偵察役となったのである。
作戦の目的は、イスラム教徒の指導者を敗退させ、チャールズ・ゴードン英大佐の殺害の恨みを晴らすことだった。13年前、ハルツームで大佐が無残に串刺しにされた事件は、当時の世界に衝撃を与えた。1898年9月2日午前8時40分、チャーチルは総勢6万人のダルヴィーシュ軍に向って馬を走らせていたが、すでに英軍が彼らを1時間以上にもわたって銃撃していた。チャーチルとその部隊は150人にのぼる土着の槍兵軍を相手にするものと思ってやってきたが、敵はライフル銃兵であった。
ダルヴィーシュ軍は突然ひざまづき、イギリス軍槍騎兵の別部隊に発砲を開始した。どうすべきか?逃げるか、それとも攻撃するか?イギリス軍は攻撃することを選んだ。チャーチルは、ダルヴィーシュ軍の方向に100ヤードもない場所を担当していたが、自分が12人もの槍兵たちでぎゅうぎゅうの谷間に突進していっていることに気づいた。
そこで彼は何をしたのか?もちろん戦い続けたのである。ひどい混戦で、ダルヴィーシュ軍の多くがボウリングのピンのようにひっくり返っていった。チャーチルはマウザー銃を10発放ち、自分も馬も無傷で攻撃を終えた。峡谷を突き抜け、ダルヴィーシュ軍と英軍とが互いに切り刻むなかを動き回った。
チャーチルは「敵の兵士に乗りつけ、ピストルを顔面めがけて発射し、数人を殺害した。3人は確実に死んだが、2人は重傷、残る1人はたぶん逃げおおせただろう」。こうして書くと、戦闘が一方的であったような印象を持たれるかもしれない。結局のところ、英軍にはマキシム機関銃があり、敵を持っていなかった。
しかし、そう考えるのは戦闘の危険性を大きく過小評価している。イギリスの兵士310人のうち、21人が命を落とし、49人が負傷した。チャーチルはのちにこう語っている。「私の一生において最も危険な2分間だったといっていいだろう」。
いや、果たしてそうだったのだろうか?チャーチルはこの後で第二次ボーア戦争(1899~1902年)で戦い、幾度となく屈強なオランダ人農夫たちから砲火を浴びた。オランダ人はパシュトゥン人やダルヴィーシュ軍よりも射撃が上手であったし、より優れた武器を持っていた。チャーチルとボーア人の戦いの全容についてここで繰り返す余裕はないが、複数の本が出ている。少なくともそのうちの二冊はチャーチル自身の筆によるものである。
つまるところチャーチルは24歳のレポーターとして、このイギリスにとって不幸な戦争に参加したのである。この戦いで、南アフリカの歴史小説家ウィルバー・スミスが書いたアフリカ南部の草原を舞台とする小説のページから出てきたような、奇妙な声を発するひげもじゃの奴らが、ついに新聞の一面を飾ったのだった。
チャーチルは南アフリカのナタール植民地のコレンソと呼ばれる場所まで装甲列車に同乗した。敵に攻撃を受けて、列車は脱線。このときチャーチルは攻撃の的になりながらきわめて冷静に振る舞い、自分自身の安全を顧みず反撃した。毎度のことながら、弾丸を浴び、毎度のことながら、奇跡的に生き延びた。いったんは敵に捕まったが、捕虜収容所から逃亡し、貨物列車に飛び乗って、森に隠れた。ハゲワシに驚かされ、炭鉱に隠れ、ロレンソ・マルケス(現在はモザンビークの首都、マプト)にたどり着いたときには英雄として歓迎を受けた。
その後チャーチルは首に懸賞金をかけられた状態で自転車部隊と同行してプレトリアを抜け、デュウェツドープという町で再び撃たれてあやうく殺されそうになった。さらに第二次ボーア戦争のダイアモンド・ヒルの戦いでは「人並みはずれた勇気」を見せた・・・。読者諸氏はそろそろおわかりだろう、私がこの章でお伝えしたかったことが。
さらに続けてもいい。1915年に陸軍に入ると、ガリポリ戦の後、西部戦線に向かい、膠着状態の塹壕のあいだにある中間地帯に36回も出ていった。時にはドイツ戦線にあまりにも近づいたために、敵の会話が聞こえるほどだったという。チャーチルは爆弾や弾丸にいかに無頓着だったかという話もできるが、もう十分おわかりだろう。
チャーチルは、青年時代、というより一生を通じて、並外れた勇敢さを見せた。彼に向ってどれほど多くの弾やミサイル弾が発射されたことだろう?1000発?自分の手で何人を殺したのだろう?12人?いや、おそらくもっと多いだろう。ナポレオン戦争で軍功を重ねたウェリントン公爵以降、チャーチルほど実戦を経験した首相はいない。暴力で歯向かってきた途上国の戦闘員そしておそらく非戦闘員に対して個人的に殺意を行使した首相はいない。
チャーチルのように四つの大陸で銃撃を受けた首相もいない。ここまでくれば、賢明な読者諸氏には、チャーチルの勇敢さは疑いないものと納得していただけるだろう。とはいえ、なぜ彼がそのような性格だったのかを知りたいとも思われるだろう。
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