株式会社岩波書店刊 中島岳志[編]「橋川文三セレクション」pp.379-381より抜粋
ISBN-10 : 4006002572ISBN-13 : 978-4006002572
柳田の学問が日本の歴史的科学の中で示した比類のない長所にもかかわらず、それは究極のところ「国民共同の疑問」の提起と組織化とにおいて、やはり大きな弱点をあらわさねばならなかった。その反省は、何よりも敗戦に際して彼の記した幾つかの文章の中に明らかに示されている。
「始めて私が東北大学の講義に、民俗学の現代性ということを唱導したときには、時代は我々の生活上の疑問を抑え付け、極度にその提出を妨碍している際であった。大きな幾つかの国の問題には、予め堂々たる答えが準備せられ、人がどういうわけで是非とも殺し合わねばならぬか、何故に父母妻子を家に残して、死にに行かねばならぬかというような、人生の最も重大な実際問題までが、もう判りきっていることになっていた。
第一に自分はそうは考えられぬのだがということが言えない。誰もがそうだから是には背こうとする者が無い。寧ろ心の底から其気になってしまって、涙もこぼさずいさぎよく出て行く者が多かった。こう各自の自由な疑問を封じてしまわれてはかなわぬと、思うような事ばかりあの頃は周囲に多かった。
そういうまん中に於いて、なお民俗学は現代の科学でなければならぬ。実際生活から出発して、必ず其答えを求めるのが窮極の目的だと、憚らず説いたのは勇敢だったとも言われようが、白状するならば私はやや遠まわしに、寧ろ現世とは縁の薄い方面から、問いはいつかは答えになるものだという実例を引いていた。
従って又気楽な学問もあるものだというような印象ばかり与えて、国の政治上の是ぞという効果は挙げ得なかった。なんぼ年寄りでも、是は確かに臆病な態度であったが、しかし実際又あの頃は今とちがって、ただ片よった解決ばかり有って、国民共同の大きな疑いというものは、まだ一向に生まれてもいなかったのである。」
このとき柳田は73歳の老齢であった。この言葉の表面には、敗戦にともなう痛切な自己批判の調子といったものはみられない。むしろ戦中の己の姿勢を苦笑まじりに弁明しているという軽い調子さえ感じられる。人に己れの態度の弁明を迫られているものというより、その権威を追及されることのない長老的傍観者の自戒にすぎないようにも感じられる。しかし、それは表面だけの印象にほかならないのではないか。
「日本人の予言力は既に試験せられ、全部が落第ということにもう決定したのである。是からは蝸牛の這うほどの速力を以て、まずその予言力を育てて行かねばならぬのだが、私などはただ学問より以外には、人を賢くする途は無いと思っている。即ち到底急場の間には合わないのである。」
「ところが私は年をとり、力やや衰え、志は有っても事業がそれに追付かず、おまけにこの時代の急転に面して、用意のまだ甚だ不足だったという弱点を暴露した。」
これはまず傷心の言葉として受取られる。これらの言葉の背景には、日本近代のほとんど半世紀に即して、その期間の根本的課題を自ら選びとることによって、前人未到の学問を築き上げたものの労苦と抱負とが横たわっている。しかもそのすべてが、敗戦による大転形期において、他の多くの学問とさして変わりばえのない無力さを暴露しなければならなかった。というよりも、柳田の努力のすべては、他の多くの文化諸科学が国民生活の実情に冷淡であり、しきりに演繹的な空中楼閣の建造のみに専心しているのにあきたらず、すべての社会改革のためには「予め知ってかからねばならぬ歴史が多く、それが今日はまだ荒野のままに置かれている」のだから、その「歴史の知られざる巻々」を明らめることにより、国民の「予言力」を培養することに集中されていた。
したがって、いまその予言力の喪失が嘆かれていることは、何よりもまず己れの民俗学についてでなかればならなかった。これはほとんど悲劇といってよいであろう。柳田は戦争中、ある青年の出征に際し、日章旗に「未来を愛すべきこと」と書いて与えている(昭和19年10月5日の記)。柳田が固陋な現状維持者でないことは幾度も述べたとおりだが、しかも彼は、その愛すべき未来に関して、その青年に、必ずしも明確な見通しを与えることはできなかった。その格率の実践的解決は、いわば青年たちの模索に委ねられざるをえなかったのである。