2024年8月31日土曜日

20240831 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.286‐287より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.286‐287より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 六月の戦闘についてもうこれ以上語ることはしない。最後の二日間の記憶は、最初の日々の記憶のなかにまざり込んでしまって、はっきりしなくなっている。反乱の最後の拠点であるフォーブール・サン‐タントワーヌが降伏したのは月曜になってであること、つまり闘いが始まってから四日目であったということは、人の知るところである。マンシュ県の義勇兵がパリに着くことができたのは、この四日目の朝になってからのことだった。彼らは急ぎに急いでやって来たのだが、それは鉄道のない地方を通っての八十里以上の道のりであった。総員一五〇〇人。私は彼らのなかに、地主、弁護士、医師、農業家、私の友人、私の隣人を認めて感激した。私の郷里のほとんどすべての旧貴族たちが、この機会に武器をとり、部隊に加わった。フランスのほとんど全土でこうしたことがおこった。自分の郷里の草深いところで、もうすすけてしまっているような田舎貴族から、立派な家系の優雅で役立たずの相続人までの、すべての連中がこの時に、自分たちはかつて戦う階級、支配する階級に属しているのだということを思い起こした。そしていたるところで彼らはパリへの出発の先頭に立ち、力強さの模範を示したのだった。それほどにこの旧い貴族の集団の活力は大きいのである。彼らはすでに無価値なものになってしまったとみえる時に、自分自身の足跡は保持しているのであり、永遠に死の影のなかに憩いを求める前に、そのただなかからいく度も立ち上げるのである。シャトーブリアンが息を引き取ったのは、まさに六月事件のさなかであった。この人は今日でも旧い世代の精神をたぶんもっともよく保存していた人であった。私は家族の関係と子供時代の思い出とによって、この人のことは身近に感じていた。長いこと前からシャトーブリアンは茫然として言葉が出ないというような状態におちいっていた。そのことは時に人をして、彼の知性は消えうせたと思わせたものであった。しかしこうした状態のなかで、二月革命が発生したという噂が彼の耳にはいり、彼はその経緯を知ろうと思ったのだった。人が彼に七月王政が打倒されたと告げると、「よくやった」と言って沈黙した。四ヵ月の、六月の砲声がまた彼の耳にまでとどくと、彼は再びあれは何の音かと尋ねた。パリで戦闘が起こっており、あれは大砲の音だと人が答えると、「そこに行きたい」と言いながら、無理をして起き上がろうとした、そして今度は永遠に沈黙してしまった。その翌日に彼は死んだのである。

 これが六月事件であった。必然的で痛ましい事件であった。それはフランスから革命の火を消し去りはしなかった。しかし少なくとも一時の間、二月革命に固有の仕事と言いうるものに終止符をうった。六月事件はパリの労働者の圧政から国民を自由にし、国民を国民自身のものとした。