朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」
pp.105-108より抜粋
ISBN-10 : 4022952385
ISBN-13 : 978-4022952387
人間は「じつは・・・だった」の発見によって、過去をつねにダイナミックに書き換えて生きています。よく生きるためには、この書き換えをうまく使うことが大事です。それが訂正する力ということです。
もちろん「じつは・・だった」は万能ではありません。その力を野放図に使うと、過去を都合よく書き換える場当たり的な人間になってしまいます。歴史修正主義の問題です。
とはいえ、それは人生の転機においては必要になる力です。長く続けてきた仕事を辞める、長いあいだ連れ添ってきたひとと別れる、そういうときに、多くのひとが、いままではまちがっていた、これからは新しい人生を送るんだと考えます。リセットの考えかたです。
これども、いままでの仕事はたしかに苦しかった、いままでのひととは性格が合わなかった、でもそれは「じつは」こういう解釈ができて、その解釈をすると未来ともつながっている、だから、過去と切れるのはむしろ人生を続けるためなんだ、と考えたほうが前向きになれると思います。それが訂正の考えかたです。
いまはそんな訂正する力をネガティブな方向で使っているひとが多い。「じつはずっと騙されていた」「じつはずっと不幸だった」「じつはずっと被害者だった」という「発見」はネットに溢れています。
しかし、同じ力はポジティブにも使えるはずです。訂正する力を人生に応用する方法については、あらためで第3章で話します。
リベラル派は新しい歴史を語るべきだ
「じつは・・・だった」の発想は共同体の物語にも応用できます。
いま日本は危機を迎えています。急速に進む少子化、深刻な国際情勢、経済的な凋落、低迷するジェンダー指数やエネルギー問題、頭の痛いことが山積みです。
そこでどう舵を切るか。過去はまちがっていた、昭和の日本とは手を切るというのもひとつの方法です。多くのひと、とくにリベラル派はそういうリセットを望んでいるように見えます。
けれども、そこでも訂正の考えかたを取ったほうがいいのではないでしょうか。具体的には、今後の日本を見据えたうえで、未来とつながるようなかたちで「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくるべきだということです。
これは歴史修正主義を推進しろということではありません。歴史とは、過去の事実を組みあわせ、物語になってはじめて成立するものです。エビデンスに反しなくても、複数の物語がありえます。
そのような作業が必要なのは、じつはいまは保守派よりもリベラル派のほうです。保守派はもともと物語をもっている。リベラル派は独自の歴史観に乏しい。
たとえばリベラル派には、自民党の支持母体ということもあり、神道を警戒するひとが多くいます。たしかに戦前の国家神道には大きな問題があった。しかし、神道そのものについて言えば、これは日本の土着宗教、というよりも文化習慣と不可分なものであって、その価値を否定して政治的な影響力をもつのは難しい。それならば逆に、「じつは神道にはこのような歴史がある、それは保守派が想定するよりもはるかにリベラルで、私たちの未来に続いている」ぐらいの物語をつくってみたらいいのではないか。
日本のリベラル派は戦後80年弱の歴史しか参照できず、その点でたいへん弱い。アメリカだと、共和党も民主党も独立宣言やゲティスバーグ演説に戻る。左右問わず国家の歴史が利用可能なリソースになります。
日本でも同じように歴史に接するべきです。左右ともに歴史を参照して、はじめてバランスが取れる。別に天照大神や神武天皇に溯れとは言いません。それでもいろいろな歴史が語れると思います。