2021年4月10日土曜日

20210410 中央公論社刊 吉田裕著「日本軍兵士」-アジア・太平洋戦争の現実 pp.42‐45より抜粋

ISBN-10 : 4121024656
ISBN-13 : 978-4121024657

【太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属=18万2千人、陸軍軍人・軍属=17万6千人、合計で35万8千任に達するという。日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、8万8133人(「日露戦争の軍事史的研究」)と比較すれば、この35万8千人という海没死者の重みが理解できるだろう。なお、船舶輸送軍医部は、「船舶輸送中における戦死は溺水死その半ばを占むべし」としている(「船舶輸送衛生」)。つまり「溺れ死に」である。

 多数の海没死者を出した最大の要因は、アメリカ海軍の潜水艦作戦の大きな成功による。第二次世界大戦で、米海軍は52隻の潜水艦を喪失したが、1314隻・500万2000トンの枢軸側商船を撃沈している。潜水艦一隻の喪失で25隻もの商船を撃沈していることになる。ドイツ海軍は781隻喪失、撃沈が2828隻・1400万5000トン、一隻の喪失で3.6隻を撃沈しているが、米海軍には大きく水をあけられている。ところが日本海軍の場合は、127隻喪失、撃沈が184隻・90万トン、一隻の喪失でわずか1.4隻を撃沈しているにすぎない。

 米海軍の対日潜水艦作戦では1943年半ばが大きな画期となった。米海軍は、この頃までに不発や早発が多かった米軍魚雷の欠陥を是正しただけでなく、日本商船の暗号解読に成功した。これにより、船団に対する待ち伏せ攻撃が可能になったのである。(「研究ノート 対日通商破壊戦の実相」)

 多数の兵士たちが海没死した日本側の要因としては、日本軍の輸送艦の大部分が徴傭し、船倉を改造した狭い居住区画に多数の兵員を押し込めたことがあげられる。そのため沈没の際に全員脱出することは不可能であった。また、多数の喪失によって船舶の不足が深刻になり、一輸送船あたりの人員や物資の搭載量が過重となったことも犠牲者を増大させた(前掲、「アジ化・太平洋戦争の戦場と兵士」)。

 先にあげた船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」は。船舶輸送に特有の環境の一つとして、居住区画の「狭隘」さをあげ、軍隊輸送では坪あたり3ないし4人の兵士が適当だが、温度が高い熱帯地の輸送では坪当たり2.5人を理想とする、しかし、船腹の関係や作戦上の要求から、「坪当たり5人の多きに達すること」があると指摘している。

 一坪に完全武装の兵士5人が押し込まれれば、横になることさえ不可能である。1944年7月、フィリピンに向かう輸送船の船内の状況を軍医(見習士官)の福岡良男は、「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれ、自由に甲板に出られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため、うつ熱病(熱射病)となり、体温の著しい上昇、急性循環不全、全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立ち会い、肉親に見送られることなく、波間に沈んでゆく兵を、切ない悲しい思いをして見送った」と回想している。(「軍医のみた大東亜戦争」)。

 入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、福岡によれば甲板の出入口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが我が物顔でたむろしているからだった。