2021年4月1日木曜日

20210401 株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」pp.64-67より抜粋

株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」pp.64-67より抜粋
ISBN-10 : 4101131031
ISBN-13 : 978-4101131030

スエズには12月17日の夕刻に着いた。シンガポールを出てから18日目である。検疫も簡単にすんだ。書類には、やれ伝染病が発生したか?とか、ネズミがいるか?とか、いかめしい質問が並んでいるが、要するにすべてNoで片づけてしまって、ネズミはいたが食べてしまったなどど書く必要はない。

ドクターのことを呼んでいると船の者が言うので、行ってみると検疫官の従卒が「頭痛がする」と額に手をあてて実に物悲しげな顔をしてみせる。私は日本医学の真価をみせてやるのはこのときだと思い、わざわざ数種類の薬を調合して彼に与えた。ところが、あとからあとからいろんなのがやってくる。「アイ・ドロップ」とか言って目薬を要求するものが多い。そう際限なくやってしまっては自分の船で使うのがなくなってしまう。私もこれには弱って、あちこちから目薬の空きびんをかき集め、ホーサン水を作ってその中につめ、それからはこれを与えることにした。あとでサード・オフィサーが言った。

「ドクター、だめだよ。奴等みんなタカリですよ。」

エジプトは薬品が高価で不足しているので、仮病を使って船に薬を貰いにくるのだという。スエズ運河を通過中も、しきりにボートマンが私のところにやってくる。最も欲しがるのはやはり目薬だ。例の急造のを与えると、ひねくりまわしてなにかぶつぶつ言う。よく聞いてみると、ペニシリン入りのはないかとのこと。

「ノオ」とついに私も大声を出した。「この船はそんなもの持たぬぞよ!」

私はそいつを医務室から押し出し、ピシャリとドアを閉めた。しばらくすると、また別のボートマンが現れ、アイ・ドロップ、プリーズ、と言う。「ノオ」と私は不気味におしころした声を出した。そのくらいのことで引き退る相手ではない。しきりに自分の目を指し哀訴を繰返す。見るとたしかにその目は汚く目ヤニがこびりついている。もう急造の目薬もないので、硼酸の粉末を与え、その使用法を説明し、私はそいつを医務室から押し出し、ピシャリとドアを閉めた。

 薬品ばかりでなく、「スエズを通るのはもうイヤだよ」と船長がこぼしていた。船には港々で検疫官やパイロットなそにやるミヤゲ物をかなり積んである。扇子、ハンニャの面、羽子板などだが、ひどいパイロットになると、これではイヤだ、もっと別なのをくれ、終いには船長室にかかっていた額をさして、あれをくれなどと言いだす始末だそうだ。ついに私は持参した例の風呂敷の一つを船長に提供したが、上等の風呂敷を持ってこなくてホッとしたのはこのときだけであった。そればかりではない。調査官のM氏の部屋にやってきたボートマンが空箱を指さし、それをくれと言うのでなにげなく頷くと、空箱でなくてその横になった手袋を持って行ってしまった。慌ててとめると、今あんたは確かにくれると言った筈だと頑張り、とうとう手袋をまきあげられてしまったという。こうした植民地的貧困の残渣は、現在この国に澎湃とみなぎっているナショナリズムの息吹きと一見奇妙な封に入り混じっている。

 スエズでもポート・サイトでも、家の中でも街上でも、頻々とナセルの写真にお目に掛かった。私は大体こういう現象を好まない。写真なぞというものは、個人でこっそり飾っておくべきもので、でかでかと人目につくように貼りだされる場合、いつだってなにかいかがわしい気配を感ぜざるを得ない。しかしアラブ連合の若き役人氏は、自分の胸をさし、「ナセルは私の心臓だ」と言った。街にはこの雰囲気がみちみちている。

 スエズの裏通りには、パジャマ姿に素足の汚い子供らが一杯いて、写真機を向けると我がちに集まってくる。自分が写されようとして前へ前へと出てくるからなかなかシャッターが切れない。ところが大人がそばにいると、たちまち子供らを追いはらってしまう。初めは何のことかと思ったが、要するに貧しい非文明的な情景は、国威をけがすから写させないのだ。辻豊氏の「ロンドン東京五万キロ」という本によると、シリアやヨルダンではもっとひどく、うっかり写真をとると警察にひっぱられる。辺鄙な土地ほどこういう傾向が強いらしく、スエズでは汚い風景にカメラを向けると必ずといってよいほど注意を受けたが、ポート・サイドではめったにそういうことはなく、アレクサンドリアでは一度も経験しなかった。

 特有な平たいパンを戸板にずらりと並べ頭にのせて運んでいる光景を撮ろうとすると、さっそく愛国者が現れ、手をふって「ノオ」といった。しかもこの愛国者氏は十分間ほど私を尾行し、けしからぬ写真を撮りはせぬかと見張っているのである。といって、対日感情は非常によく、街を歩いていてもやたらに握手を求めてくる。しかし私はこういう現象も好まない。もっと個人的なものから出発したものでないと、なにかいかがわしく、トーマス・マン作「魔の山」に出てくるクラウディア・ショウシャの口を借りれば「ねーんげん的」でないように思われる。

*このクラウディア・ショウシャは、おそらく実際は、同著内、他の登場人物であるシュテール夫人を指しているのではないかと思われます。